洋風建築
米軍宿舎の建設方法としては、アメリカ側が設計図と区画プランを提供し、台湾がそれに沿って建設した。そこでは台湾側に設計変更の権限はなく、その建築スタイルは1950年代のアメリカ住宅そのものであった。アメリカ人は故郷をそのまま陽明山に移して来たことになり、そのため山仔后の米軍宿舎を、建築学者は租界式の植民地建築と呼んだ。
台湾の住宅が通常狭く立て込んでいるのに対し、米軍宿舎はアメリカのカントリースタイルそのままに、多くは平屋で、一戸当りの建坪は少なくとも80坪以上になる。これに広い芝生の庭がついて、家と家の間に10から15メートル距離をとり、採光もよくプライバシーも守れる。
宿舎の間には通常垣根や塀を設けず、芝生は隣家と共用で使って子供の遊び場となり、健康的でリクリエーションが可能な公共空間となる。
米軍宿舎の最大の特徴は全て煙突があり、屋内に防寒設備が設けられているところである。台湾は亜熱帯気候なので、普通は煙突や暖炉の必要はないが、アメリカ人にとって実用性はなくとも、故郷の暖かい記憶を呼び起こす必需品だったのである。
米軍の駐留期間中、安全とプライバシーを守り、地域住民との衝突を防ぐため、地域の出入り口は米軍の憲兵が監視し、軍関係者以外の出入りは禁止されていた。あたかも治外法権の世界、国の中の国であった。
外の世界と隔絶した米軍宿舎でも、台湾を震撼させた事件が起きたことがある。1957年、陽明山の革命実践研究院の職員だった劉自然が、当時の駐留軍のレイノルド軍曹に自宅の前で射殺されたのである。原因は米軍内だけで販売される外国煙草や洋酒などの規制品を、軍曹が劉自然に横流しして外で販売させ、暴利を得ていたことにある。2人はその分け前からトラブルになり、軍曹が劉自然を射殺したのであった。しかし、事後に軍曹は軍事法廷で劉自然など知らない、宿舎の中で妻の入浴を覗き見していたから自衛のために射殺したと証言した。
この事件の審理を担当した軍事法廷も内情を深く追及せず、証拠不十分で無罪放免にし、直ちに軍曹をアメリカに送還した。これがマスコミに報道され、台湾で大規模な反米デモが起った。これが劉自然事件である。
このように衝突と隔離はあったが、山仔后近辺の住民は、米軍家庭を対象とする家政婦やサービス提供で稼ぐようになった。アメリカの家庭生活を代表するスーツやコーラ、サンドイッチ、バスケットボールなどの文化が、次第に付近の地域に広まっていき、質朴で質素な伝統的農村の山仔后が、次第に洋風の商業的な町に変わっていった。1962年に中国文化大学が創設されると、現地の人口はさらに増加する。
1978年、アメリカは国府と国交を断絶し米軍も撤退した。それまで出入りが管理されて租界のようだった米軍宿舎も、家主の台湾銀行が台湾人に賃貸するようになった。政界の大老・林洋港氏や劇作家の頼声川氏なども、ここに住んでいたことがある。
1978年の国交断絶で米軍は台湾から撤退し、住む人のいなくなった一部の宿舎はそのまま放置されてきた。