異なる角度から台湾を再認識
当日、取材を受けてくれた蕭新晟、楊承融、蔡思亭、侯光遠は4人とも1980年代生れである。渡米前は台湾についてあまり知らなかった。異郷で自分の故郷について話した時、台湾への理解がほんのわずかであることに気づいた。
幼いときに両親に送り出された小さな留学生だった蕭新晟は言う。「中華民国をアメリカは認めていません。だからこそ、ここ(米国)で知りたいと思ったのです。アメリカが私の国が中華民国であることを認めないなら、自分は一体どこから来たのか、そう考え始めたのです」
ピッツバーグ大学で公衆衛生を専攻し、ピッツバーグ地区のボランティアをまとめる蔡思亭は尋ねられたことがある。「あなたのアイデンティティは何?」そこで彼女は振り返った。「いつも私たちは台湾人だと叫んでいるけれど、では台湾人のアイデンティティは何かと聞かれたら、答えられません」「(中国大陸とは)違うと強調するばかりで、どこが違うのか言えないのです」
そこで、プロジェクトに参加することで、他の国が認識する台湾を目にした。
侯光遠は、米国の大学から台湾を訪問した人が台湾の農林水産業を視察した文書を撮影した。台湾の強みを学びに来たのだった。文書に挟まっていた漁業組合の理事長の名刺が、先人の労苦を思い起こさせた。
蔡思亭は、米国各都市から郵送された様々な商品カタログを目にして、皆がフォルモサ‧台湾で取引を望んでいたことを知った。「台湾も、香港やロンドンなど大都市のように、たくさんの企業が接触を求めていたことに驚きました。学校で習った誰も気に留めない小国という認識とはずいぶん違います。私たちは見直しました。台湾はこんなにポテンシャルがあるのです」
「自分と近いものほど、心に響きます」成功大学出身の侯光遠は、米国援助時代の成功大学に関わる史料を見つけた。出身学科の前の代の教授の名前もあった。自分の祖先を見つけたような思いがした。公共政策を専攻する 蔡思亭は、両親が若い頃、仕事の後に映画を見に行っていたのも、米国が提案したことだったと知った。台湾政府に労働者の娯楽や健康に配慮するよう求め、保険の概念を導入したのも、米国だった。
台米間には実務的で深い関係がある。蕭新晟は、数多くの文書が台湾の民主化の過程を示しているという。米国が背後で圧力をかけ、当時の国民政府に、権威主義から民主主義へ向かわせたのであった。エンジニアリングを学ぶ侯光遠が指摘する。台湾の1970年代における十大建設は、多くが米国の建設会社が台湾に来て設計と計画を支援していた。「米国の台湾への投資には深さがあります」侯光遠は説明する。この緊密な関係は、見方によっては違う解釈もできるが、蔡思亭は、誰でも米国に行くことがあったら、この撮影活動に参加することを勧める。「史料の撮影で台湾への認識を新たにし、感じ方も変わります」