先陣を切る地図
「ジャンドルは台湾通となり、台湾の地図を描かせ写真を撮らせました。なんということない地図が、台湾の運命を変えたのです」と魏徳文は指差す。地図にははっきりと、台湾中央山脈以東を区分する境界線が描かれ、そこは「清朝統治の土地ではない」と示されている。ジャンドルはアメリカに台湾進攻を建言するが容れられず、その後領事を辞任し帰国の途中に日本を訪れ、外務大臣の顧問に招かれる。その後、台湾侵攻作戦を計画することになった。
原住民が、遭難した船の漂流外国人を殺害するたびに、清の朝廷は「蕃地には政教及ばず」を言い訳にする。ジャンドルは、日本がこれを手がかりにして、台湾原住民族の土地は主権のない土地だから、侵攻できると考えたのである。
1871年、琉球の船員が恒春の八瑶湾に漂着し、54人が原住民に殺された。1874年、日本はこれを口実に台湾に出兵し、ジャンドルの地図を基に3000人の大軍を屏東の四重渓に進攻させた。しかし、3ヶ月たっても攻略できず、50数人が戦死、熱病による病死が500人に上った。これが台湾史上に有名な牡丹社事件である。日本の外務大臣は李鴻章との交渉をジャンドルに依頼し、台湾の事件にかまっていられない清朝は銀40万両の賠償金を支払った。
「負けた日本が賠償金を受けた凱旋軍となった鍵はジャンドルです。台湾の運命を理解するには、ジャンドルの描いた地図とその役割を理解しなければ」と魏徳文は語る。地図は経緯度の正確性ではなく、そこに盛られた情報の豊かさで影響力がうかがえる。
「外国人が台湾地図を描くには、まず海水の深度、停泊できる場所、軍艦の入る場所など海岸から書くでしょう。こういった情報には測量が必要です。台湾に進攻する意志のあった日本には、こんな地図があったはずです」というのが魏徳文の長年の疑問である。
1895年に日本人が翻訳した台湾全図を広げ、日清戦争の当時、敗戦国清朝は台湾を割譲したのだが、それ以前から日本はヨーロッパ人の作成した台湾地図を収集していたと説明する。この地図はイギリス海軍大尉が実地に台湾を詳細に調査して作成したもので、台湾東西の基隆、淡水、安平、打狗(高雄)などの天然の良港がはっきり示されている。「当時、清朝にもこんな地図はなかったのに、日本で海港の詳細図を作成したのはなぜか、日本の意図が短期的なものではないことが分かります」と続ける。
想像から精度へ
歴史を遡ると、地図から中国と台湾の関係がうかがえる。中国が作成した台湾地図の一番古いものが、1592年の明朝万暦年間の海防図である。図には基隆沖の小島と淡水河が描かれ、その当時の台湾は明朝から小琉球国と呼ばれていた。
1624年、オランダが台湾に植民地を築き、38年間それを維持した。東インド会社は台南安平に商館を設置し、何人もの絵師を抱えて、台湾全島の地理環境と鉱産を精確に描写した。東インド会社は地図を商業と殖民の機密としてファイルし、1972年になってようやく刊行した。
1662年、鄭成功がアモイと金門に駐留し、オランダは清朝と共に鄭政権を討つことになり「中華沿海地区海図、広東、福建とフォルモサ島」を作戦の参考とした。そのおかげか、鄭成功を台湾に追い詰めることに成功したのである。
この重要な地図が『経緯フォルモサ』のカバーに使われているが、古地図のオークション市場では100万台湾ドルと言われ、恐らく一番値段の高い台湾古地図と言われる。
地図は作戦の情報資料となるばかりではない。産業革命後、測定機器が精度を加え、領事、商人、宣教師、科学者が台湾を訪れ、台湾の形状と経緯度を現在とほぼ同じレベルまで測定した。
1854年、アメリカのペリー提督が日本に開国を迫ったが、その帰途に台湾を通り「フォルモサ鶏籠東方炭鉱分布図」を作成した。産業革命以前の船は風を動力としたが、蒸気機関が発明されてから、船の動力源は石炭となった。航海の途中で燃料を使い果さないように、イギリス、フランス、アメリカの船舶は海外に出かけるたびに現地の炭鉱を調査して地図を作った。この炭鉱分布図は、アメリカが台湾について作成した最初の地図である。
長年地図を研究してきた魏徳文は、地図情報から外国人がいかに台湾を理解したかを見て取るのが習慣になった。手元にある中国解放軍が1962年に作成した台湾地図には、台湾の南から北に駐屯地、港湾、油田などの情報が記載されており、当時の中国と台湾の緊張した雰囲気が感じられる。
魏徳文がコレクションした千枚余りの古地図には、本では語り尽くせない物語が込められている。4世紀前の手漉き紙に印刷された古地図は、普段は中性のカートン紙に挟んで木製のキャビネットに納められている。保管にも手間がかかるが、古地図を再び流出させたくないと魏徳文は言う。これも教科書に記載の少ない台湾史の構築のためなのである。