
昨年末、ニセの米酒をそれと知らずに飲んで中毒を起こすという事故が相継ぎ、人々を不安に陥れると同時に米酒問題が再び注目された。政府の関係機関は頭を痛め、国内ではヤミ酒やニセ酒の取り締まりを強化するとともに、対外的にはWTO世界貿易機関の加盟国との酒税に関する交渉を再開した。しかし、国民にとって最も残念なのは、この寒い季節に身体を温めてくれる焼酒鶏(米酒で鶏や漢方薬を煮込んだスープ)が食べられないことだ。
台湾の暮らしにおいては、産まれてから死ぬまで、冠婚葬祭などの人生の重要な節目に米酒は欠かせない。子供が産まれて4ヶ月目になると、親はショウガの薄切りに米酒をつけて子供の頭に塗ってやる。こうすると、髪の毛が黒く豊かに生えると言われているからだ。端午の節句には、米酒に雄黄(鉱物の一種)を加えたものを指にとって、魔除けのために子供の額に「王」の字を書いてやる。また、子供を産んだばかりの女性は米酒で身体を拭く慣わしがあるし、海を渡ってきたお客様には、「洗トミ水」といって、旅の疲れを癒してもらうために米酒を一杯勧める。このように、台湾人にとって米酒は飲物でもあり、消毒薬でもあり、魔除けや祭祀にも使う万能の酒なのである。
米酒が料理酒の主流になってからは、炒め物、煮物、蒸し物、漬物など、どんな料理にも使わるようになった。ほとんどすべての料理に米酒が使われると言っても過言ではない。レストランのシェフにとっても米酒は手放せないものだし、薑母鴨、羊肉炉、焼酒鶏、薬燉排骨といった身体を温めるスープや鍋物では、水の代りに米酒で煮込むことで血行をよくすると言われる。さらに重要なことに、台湾の家庭のキッチンでは、塩・砂糖・酢などと同様、米酒は主婦にとって欠かせない調味料の一つなのである。
台湾で飲用されてきた歴史が最も長く、最もよく売れる酒と言えば米酒、特に赤ラベルの米酒だ。中国大陸の五糧液や茅台酒、西洋のブランデーやウイスキーなどが次々と入ってきても、米酒は台湾人にとって最も重要な酒であることに変りはない。
台湾の人々に愛され続けてきた赤ラベルの米酒の造り方には、どのような秘密があるのだろう。その味に取って代わるものは本当にないのだろうか。台湾における赤ラベル米酒の百年の歴史を振り返り、深く根を張った米酒文化について考えてみようではないか。
冬至が過ぎたばかりの頃、桃園県大華の眷村(戦後中国大陸から移り住んできた軍人や公務員が暮す地域)に住む陶おばあさんは、孫や子供に大人気の滷味(醤油味のタレで肉などを塊のまま煮て薄切りにして食べる料理)を作り始める。大鍋の中には牛のすね肉、牛の胃袋、アキレス腱、鶏の砂肝、干し豆腐、昆布などが並び、五香、八角、醤油、ニンニク、砂糖などの調味料を加えると、さらに米酒を瓶の半分ほど注ぐ。「料理の中には紹興酒を使うとおいしいものもありますが、滷味は米酒じゃないとおいしくできませんよ」と陶さんは鍋の中身を動かしながら話す。「米酒が1本130元まで値上がりしちゃったので、今年の冬はまだ焼酒鶏を一度も作っていません」と言う。

羊肉の薬膳鍋
今年は旧正月が普段の年より早く、陽暦の1月31日が大晦日だ。各家庭のお母さんたちは、大晦日の夜に家族や親戚が集まって囲む食卓のメニューを考え始める。前菜には酔鶏(酒の香りの蒸し鶏)、焼臘双拼(焼豚や腸詰の盛り合わせ)、続いて焼酒籠蝦(酒に火をつけて焼いた蝦料理)に三杯小巻(小イカの香味煮)、紅焼魚(魚の煮物)、富貴牛腩(牛肉の煮物)、干貝芥菜(芥子菜の干し貝柱あんかけ)と続き、円卓の中央には羊の鍋料理を出す。食後のデザートは米酒で蒸した米糕だ。このメニューにすると、どの料理にも米酒が欠かせず、全部あわせると3本は必要だ。
酒といえば、中国人のお祭りには欠かせないもので、漢民族に属する台湾人も例外ではない。中国伝統の風習では酒がなければ儀式は始まらない。古代の甲骨文と鐘鼎文には、祭典に関わる「奠」「礼」「酋」などの文字が出てくるが、いずれも酉(酒)の字から派生して生まれた文字なのである。
中国の米酒の歴史は、稲作文化の歴史とほぼ同じ長さを持つ。西洋の果実酒に対して、中国の穀物酒の歴史は7000年余り前の神農の時代に始まったとも言われる。米を主食とする中国では、米を原料とする酒が昔から主流だった。『素問』には、黄帝と岐伯が黍(きび)、稷(ひえ)、稲、麦、菽(まめ)の五穀で作った酒について話し合う段がある。『戦国策・魏策』には、夏の禹王の時代、儀狄という人が酒を造り、それを飲んだ禹王は、非常にうまいと思ったが、自分が酒に溺れて国事を誤ることを恐れて儀狄を遠ざけたという話が出てくる。そして禹王は「後世に必ず酒を以って国を亡ぼす者あらん」と世の人々をいましめたのである。その当時の主食が何だったかはわからないが、かつて禹王は南苗を攻め、魚米の郷と言われた長江流域まで国土を広げたことから、儀狄が造った酒の原料は米だったと考えられるのである。
殷の時代から、酒は正式に祭祀の供物とされるようになり、出土している当時の銅器のほとんどは酒器である。『礼記・月令』には、酒の醸造をつかさどる官である「大酋」が、コーリャンと米を用意し、適当な時期に麹を作ったとある。穀物を水に浸して蒸すといったプロセスは清潔な状況で行なわなければならず、混じりけのない甘い水を用い、質の良い道具を用い、火加減をよく掌握する。この6点を守れば、失敗することはないと書いてある。
農業技術と農産物に関して詳細な記載のある北魏の『斉民要術』の「造酒巻」には、特に「梗米酒」という一章があり、春に米を醸造して酒を造る方法が詳細に書かれている。

民間の風習において米酒は魔除けの役割を持ち、祭祀における重要な道具の一つとされている。
中国には数千年にわたる米酒の歴史があるとは言うものの、大昔の米酒は今日の台湾人が親しんでいる赤ラベルの米酒とは違うものだった。古書に記されている米酒が今日の米酒と違うのは、発酵後に直接搾る醸造酒だったという点である。これは中国語では俗に黄酒とか赤酒などと呼ばれるものだ。黄酒は我が国に古くから伝わる飲用酒で、紹興酒や福建の老酒(ラオチュー)などもこれに属し、アルコール度数は15〜20度ほどである。
この黄酒を蒸留して得られる、無色透明でアルコール度数の高い蒸留酒がいわゆる「白酒」だ。蒸留する時間が長ければ長いほど、アルコール度数は高くなり、火をつければ燃えるようなアルコール度数の高いものは「焼酒」と呼ばれる。白酒の歴史については定説はないが、河北省青竜県で出土した銅製の蒸鍋を見ると、少なくとも800年余り前の宋の高宗の時代には、アルコール度数の高い焼酒が作られていたことがわかる。
酒造りの原理を化学変化から説明すると、酒とは糖類またはデンプンの二種類の炭水化物が発酵して出来るものだ。果実酒の場合、ブドウ糖と果糖が酵母菌によって直接発酵して酒になる。穀類酒の場合は、まずデンプンが分解されてブドウ糖または麦芽糖になり、それが発酵して酒になる。ご飯をじっくり噛んでいると甘みを感じるのは、デンプン質が唾液によって分解されて糖分に変化するからだ。
漢民族が台湾に渡ってくるまで、先住民族は唾液を利用して酒を造っていた。このような「嚼酒」は最も原始的な酒造りの方法の一つである。清代の康熙36年(1697年)、『裨海紀遊』の作者である郁永河が書いた「番女逐枝詞」には、番女(先住民の女性)が酒を造る姿が歌われている。先住民の女性は、生米を噛んで濃い汁にし、それを甕代りの竹筒に入れて壁にかけておき、お客が来ると、竹筒を開けてもてなす、というのである。
清の康熙61年、初めての巡台御史に就任した黄叔璥は『台海使槎録』の中に、次のような歌謡を収録している。「祭りが来ればショウガを植え、もち米と交換して酒を造る。酒が出来たら、地元の官吏を招いて酒でもてなし、充分に飲んだ後、鹿を捕り、また祭りを迎える」というものだ。これは当時の平埔族が従来の粟酒を造っていただけでなく、漢民族が移住してきてからは鹿皮や黄藤(蔓性の植物)を、漢人のもち米と交換し、麹を使って米酒を造っていたことを示している。原料が希少で、醸造時間も長い米酒は、粟酒より貴重なもので、普段は口にせず、大切なお客を迎える時だけ出していた。先住民族の世界では、酒造りは女性の仕事とされ、美酒と織物が作れ、農耕と家畜の世話ができることが、平埔族の女性の美徳とされていたのである。

米酒とゴマ油とショウガで鶏を煮た麻油鶏は、産後の女性には欠かせない栄養補給品だ。
米酒の造り方は簡単で、台湾はまた米どころでもあったため、台湾の開墾にやってきた漢民族は、福建や広東の習慣を継承して米酒を主たる飲用酒にしていた。毎年冬至の頃になると、多くの人が上質の米を選んで自分で米酒を造った。これを閩南語では「結春酒」と言い、旧正月を迎えるための酒だったのである。
日本統治時代の統計によると、米酒の消費量は酒類全体の6割以上を占めていた。酒税が課されるようになるまで、台湾には酒蔵が1000軒以上あり、酒税徴収後も200軒余りあった。当時の酒造りの方法は「在来法」と呼ばれるもので、まず米を炊いて冷ました後、白麹をふりかけ、カビが生えたところへさらに飯を混ぜて大きな甕に入れて発酵させる。それを一定期間置いてから蒸留して透明な米酒にするという方法だ。この頃、民間で使われていた白麹には多くの雑菌が含まれていたため、酒蔵によって米酒の風味は異なり、失敗して酸味が出てしまうことも多かった。
酒が専売制度下に置かれるまで、民間の造り酒屋には、おもしろい副業があった。養豚である。酒造りの過程で、もろみを搾った後に出る「酒粕」を豚の餌にすると、豚肉はおいしくなり、上等の豚肉として高く売れたからである。そのため酒蔵の周辺には養豚圏が発達することとなった。造り酒屋と養豚場が隣り合っている様子は、日本人を驚かせたという。

川七(葉野菜)のゴマ油炒め
台湾を領有した日本は、1922年に比較的規模を備えた造り酒屋を買い取り、ここから台湾における酒の専売制度が始まった。日本人は、専売となった米酒の麹の品質向上に努めたが、酒造りの方法は依然として「在来法」のままだった。
1927年、台湾の米酒の製造方法に革命的な変化がもたらされた。中央研究所醸造課の技師だった神谷俊一がフランス領ベトナムに出張した時、サイゴンのある酒蔵が「アミロ法」を採用しているのを発見したのである。この新しい醸造法は、従来の白麹からの発酵力の特に強い二種類菌種を分離し、しかも密閉した槽の中でそれを大量に繁殖させるという方法だ。この発酵力の強い菌を得ることによって、原料の使用料を減らし、醸造期間を短縮することができ、さらに機械化生産によって米酒の生産量を大幅に向上させることが可能になった。後の、紅露酒や蜜等酒なども、この方法で造られたものである。
1931年にアミロ法の試験に成功してから、台湾の米酒の味は規格化されて均一のものとなった。風味という点では、従来の在来法による雑菌発酵の酒には及ばないが、これが今日、誰もが慣れ親しんでいる米酒の味なのである。
日本当局が専売制度下に置いた米酒は、当初は第一号、第二号、第三号の三つの等級に分かれていた。後に、第二号米酒(20.5度)が「赤ラベル米酒」と改名され、これが今日最も普及している米酒の前身である。三号米酒(25.5度)は金ラベルとされ、後にさらに25度の銀ラベル米酒が生まれた。今日の公売局(専売局に相当)は、赤ラベル米酒の配合を最高機密としているが、退職したベテラン職員によると、「コストを抑えるために、日本時代から、赤ラベル米酒は米酒の原酒と糖蜜酒を6対4の割合で配合してきました。これは今日も変わりません」と言う。
実際、台湾で好まれている日本の清酒の多くも、米酒と食用アルコールを1対2で配合した、いわゆる三倍増という方法で作られている。一方、台湾の公売局は1988年に20度の純米醸造の稲香米酒を発売したことがある。これは食用アルコールを加えていないので、香りが高くコクがあるが、予想に反して、一般消費者は食用アルコールを配合した赤ラベル米酒の方を好んだ。赤ラベル米酒が年間1700万ダース売れるのに対して、純米醸造の稲香米酒は発売から1年間で100万ダースしか売れなかったのである。そのため、純米醸造の稲香米酒は1999年に製造停止となった。

エビのフランベ
戦争が終わったばかりの頃は、酒の専売制度や製造方法も、だいたい日本時代の方法を踏襲していた。ただ、長年の戦争によって食糧が不足していたため、終戦直後の赤ラベル米酒にはサツマイモなどのデンプン質も混ぜられており、また原酒と糖蜜アルコールの比率も一時期は4対6にして原価を下げていた。
「当時最も安くて一般に飲まれていたのは太白酒で、米酒は中級レベルの酒とされていました」と話すのは、三代にわたって宜蘭県蘇澳で雑貨店を経営する60代の楊燕錦さんだ。太白酒は白露酒とも呼ばれる米酒の一種だが、食用アルコールの比率がもっと高かった。楊さんによると、太白酒は甕に入れて柄杓で計り売りをしていた。夕方になると、仕事を終えた農家の人や作業員が、小さなカップを持って買いに来たという。
「あの頃は、産後の栄養補給に、お金持ちは米酒を用いましたが、普通の家庭では太白酒を使っていました」と楊さんは言う。お供えや結婚式には赤い酒が好まれたため、より高級な紅露酒が使われた。
1970年代になると、台湾経済はテイクオフを果たし、新しい酒が次々と売り出されたため、赤ラベルの米酒は最も安価な飲用酒となり、太白酒は生産停止となった。米酒が中下層の人々の最も一般的な飲用酒であり、また料理酒としても必需品であることから、公売局は長年にわたって低価格政策を採用してきた。1977年から1996年まで、1本16元という価格が維持されたのである。その間の1980年に、当時台湾省公売局の局長だった呉伯雄氏は、米酒の価格を16元から20元に値上げしたために免職になり、一度値上げされた米酒は再び元の価格に戻されたのである。
国民の生活水準が向上した後も低価格政策が続いたため、赤ラベル米酒の役割は飲用酒から料理酒へと変わり、消費量も大幅に増加した。煙草・酒公売局の統計によると、赤ラベル米酒の販売量は1972年に年間1000万ダースを超えた。1974年には、米酒が値上がりするという噂が流れて、人々が買いだめに走り、品切れが続出するという事態が生じた。そこで公売局は中央日報に声明文を掲載した。同年の米酒の販売量は前年に比べて28.2%も増加しており、この需要に対応するために月産量を20万ダース増やすので、国民は心配しないように、という声明である。

ブタマメ(腎臓)のゴマ油スープ
「1960年代は空腹を満たすので精一杯だったので、酒というのは一種の贅沢品でした。お祝いの時などに少し飲むだけで、もったいなくて料理に使うことなどありませんでした」と話すのは、昨年7月に台湾煙草・酒公司に変った元公売局酒事業部の頼舜堂さんだ。米酒を利用して民間で生まれた「焼酒鶏」という料理は、米酒2〜3本で鶏を煮込み、テーブルで火をつけてアルコール分を飛ばすというものだが、「もったいない話です」と、第一線で酒の醸造に携わってきた頼舜堂さんは溜め息をつく。
ここ20年ほど、公売局営業処は、各分局に指示して米酒の使用に関する調査を行なってきたが、それによると米酒を料理酒として使用する割合が全体の8割を超えている。
他のメーカーの米酒も登場し、市場が戦国時代を迎えた今日、頼舜堂さんも自社の米酒を宣伝する。その話によると、以前の米酒にはメチルアルコールやフーゼル油、重金属などの有害物質が含まれていたため、飲酒後に頭痛やめまいを感じることもあり、そのため人々は米酒を「晃頭仔」(頭がくらくらする酒)と呼んでいた。そこで、米酒を蒸留する時には、いかにしてこれらの混合物を取り除くかが重要で、その点では公売局だけが独自の経験を持っているという。
「米酒は安いものですが、今日では米酒の醸造が最も難しいのです。安かろう、悪かろうという目で見てはいけません」と頼舜堂さんは言う。また、公売局は1968年に1億台湾ドルあまりをかけて、食用アルコールを純化する特殊な設備を購入し、米酒に調合する糖蜜アルコールについても同様に有害物質を除去しているので、今の米酒には鼻をつくような臭いはない。
最近は他のメーカーの米酒が続々と市場に参入しているが、質の高さと、市場に定着してきた歴史の長さから、1本130元になった今日でも、赤ラベル米酒は消費者にとって元祖としての地位を維持している。台湾煙草・酒公司も、アルコール度数の違う稲香料理酒を売り出しているが、赤ラベルの地位は変らないのである。

米酒には稲作文化とほぼ同じ長い歴史がある。宋代に描かれた「天工開物」にも米酒造りの過程の一つである「長流漂米」が描かれている。
台湾で生まれた人にとって、米酒は一種の「おふくろの味」でもある。台湾では「坐月子」と言って、お産をしてから1ヶ月の間、米酒を大量に使った料理で母体を回復する習慣があるため、赤ん坊は母乳を通して人生最初の酒を口にする。
民間の習慣では「坐月子」の間、母親は水を飲んではならず、水の変わりにアルコールを飛ばした米酒を飲むことになっている。中には、産後の入浴は良くないとして、米酒と温水を混ぜたもので身体を拭くという習慣もある。そこで、公売局が米酒の販売数を制限して一人当たりの割当本数を決めた時にも、妊産婦は1度に48本まで買えるという優遇措置を設けた。
初めて「坐月子」のための料理のデリバリー事業を始めた章敏如さんは、日本でも有名な医学博士・荘淑ムメさんの孫娘だ。その章さんの説明によると、お産の後の女性は内臓が緩んでいるので、水分を取りすぎると内臓下垂を起こしやすく、水太りで下腹部が出てしまうという。そこで3本分の米酒を火にかけて1本分まで煮詰め、ほとんどアルコールを飛ばした「米酒水」を使って、麻油鶏(ごま油とショウガと米酒で鶏を煮込んだスープ)などを作って渇きを癒すのである。ただ「アルコール自体は産婦には無益です」と章敏如さんは注意を促す。
章敏如さんの試算によると、産後の「坐月子」の間に一人の女性が消費する「米酒水」の量は160本、つまり500本分の米酒を必要とするということだ。米酒の値上げによって、最初に大きな影響を受けるのは、お産をしたばかりの女性ということになる。そこで公売局はアルコール度数が1度という「米酒水」を販売しており、さらに民間企業も「米酒露」や「坐月子水」といった台湾特有の米酒の副産物を売り出している。
しかし、米酒水の使用について中国医学の医師である陳俊哲さんは、アルコール度数1度の米酒水でも大量に飲用すれば肝臓の負担になると注意をうながす。出産を終えた女性が、平均6万ccの米酒水を消費するとすれば、600ccのアルコールを摂取することになり、急性膵臓炎を起こしやすいのである。

台湾煙草・酒公司はアルコール分20度の稲香料理酒の他に、消費者の選択肢を増やすために40度、60度の各種料理酒を次々と発売している。
中国医学の理論では、酒は経絡を通じさせ、血脈の巡りをよくするもので、薬効を行き渡らせる機能も持っている。『漢書』には「酒は百薬の長」とあり、「醫」という漢字も部首は酉であることから、医学と酒がもともと深い関係にあることがわかる。『本草品匯精要』にも「酒は主に薬勢を行らせ、百邪を殺し、毒気を悪む」とあるように、中国の薬用酒の伝統は古く、殷の時代の甲骨文にも記載がある。
「アルコールはもともと優れた溶媒で、薬材の成分をよく引き出します。薬性を引き出すにはアルコール度数20から40度のものがよく、それより強い酒は向きません。ですから、米酒や米酒頭は確かに薬用酒を造るには最適なのです」と中国医学の陳俊哲・医師は説明する。陳医師が進める薬用酒の造り方は次のようなものだ。まず、20度の米酒に漢方薬材を浸け込み、1週間置いてから、そこに50度の酒を加えてさらに薬性を引き出す。それを1ヶ月置いてから濾過して澄んだ状態にして、氷砂糖を加える。こうしておけば、あとは寝かせれば寝かせるほどおいしい薬用酒になるという。台湾では、ほとんどの家庭が自家製の薬用酒を作っており、寒い季節になると、寝る前に小さな杯に一杯飲む。こうすると血の巡りがよくなって手足が温まり、朝までぐっすり眠れるのである。
近年、多くの人はあまり肉を食べなくなっている。冬になると台北に住む張衡さんは、奥さんに頼んで、ごま油と生姜と米酒で卵を煮込んだ「麻油蛋」という料理を作ってもらう。多くの人が、時々どうしても麻油鶏や麻油蛋が食べたくなることから見ても、米酒文化がいかに深く根付いているかがわかるだろう。

四神と腸の薬膳スープ

自家製の酒を造ることが禁じられてからは、安い米酒が粟酒に取って代わり、先住民にとって重要な飲用酒となった。