「黄酒」と「白酒」が天下を二分
中国には数千年にわたる米酒の歴史があるとは言うものの、大昔の米酒は今日の台湾人が親しんでいる赤ラベルの米酒とは違うものだった。古書に記されている米酒が今日の米酒と違うのは、発酵後に直接搾る醸造酒だったという点である。これは中国語では俗に黄酒とか赤酒などと呼ばれるものだ。黄酒は我が国に古くから伝わる飲用酒で、紹興酒や福建の老酒(ラオチュー)などもこれに属し、アルコール度数は15〜20度ほどである。
この黄酒を蒸留して得られる、無色透明でアルコール度数の高い蒸留酒がいわゆる「白酒」だ。蒸留する時間が長ければ長いほど、アルコール度数は高くなり、火をつければ燃えるようなアルコール度数の高いものは「焼酒」と呼ばれる。白酒の歴史については定説はないが、河北省青竜県で出土した銅製の蒸鍋を見ると、少なくとも800年余り前の宋の高宗の時代には、アルコール度数の高い焼酒が作られていたことがわかる。
酒造りの原理を化学変化から説明すると、酒とは糖類またはデンプンの二種類の炭水化物が発酵して出来るものだ。果実酒の場合、ブドウ糖と果糖が酵母菌によって直接発酵して酒になる。穀類酒の場合は、まずデンプンが分解されてブドウ糖または麦芽糖になり、それが発酵して酒になる。ご飯をじっくり噛んでいると甘みを感じるのは、デンプン質が唾液によって分解されて糖分に変化するからだ。
漢民族が台湾に渡ってくるまで、先住民族は唾液を利用して酒を造っていた。このような「嚼酒」は最も原始的な酒造りの方法の一つである。清代の康熙36年(1697年)、『裨海紀遊』の作者である郁永河が書いた「番女逐枝詞」には、番女(先住民の女性)が酒を造る姿が歌われている。先住民の女性は、生米を噛んで濃い汁にし、それを甕代りの竹筒に入れて壁にかけておき、お客が来ると、竹筒を開けてもてなす、というのである。
清の康熙61年、初めての巡台御史に就任した黄叔璥は『台海使槎録』の中に、次のような歌謡を収録している。「祭りが来ればショウガを植え、もち米と交換して酒を造る。酒が出来たら、地元の官吏を招いて酒でもてなし、充分に飲んだ後、鹿を捕り、また祭りを迎える」というものだ。これは当時の平埔族が従来の粟酒を造っていただけでなく、漢民族が移住してきてからは鹿皮や黄藤(蔓性の植物)を、漢人のもち米と交換し、麹を使って米酒を造っていたことを示している。原料が希少で、醸造時間も長い米酒は、粟酒より貴重なもので、普段は口にせず、大切なお客を迎える時だけ出していた。先住民族の世界では、酒造りは女性の仕事とされ、美酒と織物が作れ、農耕と家畜の世話ができることが、平埔族の女性の美徳とされていたのである。
米酒とゴマ油とショウガで鶏を煮た麻油鶏は、産後の女性には欠かせない栄養補給品だ。