2000年の始まり、北京や上海の町並を歩いてみると、場所を間違えたような感覚に襲われる。見上げると台湾の歌手張恵妹がコーラを手にした大看板があり、横を見れば台湾の人気歌手范暁萱の電子辞典の広告である。ファストフードの店に入ると、同じく台湾のクリケッツの歌が耳に入ってくる。大陸と台湾の日常生活は、こんなに似てきたのだろうか。
去年、李登輝総統の「特殊な国と国」論が台湾海峡を挟んで物議をかもしていた時でもそうである。8月29日深夜、昆明の競技場の外では張恵妹の「妹力1999年コンサート」が終ったばかりで、人波が潮のように四方に流れていった。雨は小止みになったが、気持はまだコンサートの歌声の余韻が覚めやらず、今風のファッションの若い女の子の一人は「素敵だった。阿妹(張恵妹)は一種神秘的でどういったらいいのか、中国全土でもこんな歌は彼女だけ」と語る。
張恵妹が去年8月に行った大陸のコンサート・ツァーの最後のことである。その前の北京、上海、広東でもファンの熱烈な歓迎を受けた。彼女の高く声を張り上げる叫ぶような歌が、この時代の恐れを知らない直截さと荒っぽさを表現していると、北京のマスメディアは評した。
天性の声だけではなく、時代の心と欲求にうまく対応したことが張恵妹の成功の鍵だった。大陸と台湾の歌の交流史を翻いて見ると、それぞれの時代に成功した歌手、ヒットした歌の背後には、その時代固有の欲求があったのである。
20年前、テレサ・テンが台湾海峡両岸の心の交流の第一幕を開いた。1978年、大陸が改革と開放の道を歩き出した時には「流行歌は公式の価値観から全く外れたものとして扱われ、そのイメージは社会道徳に反する低俗なものでした」と、北京の音楽評論家王暁峰さんは言う。映画に出てくる不良は、必ずラジカセを持ってヒットソングを聞きながら街を歩くか、ディスコで踊っていた。
しかし、時代の流れは止められない。文化大革命の10年の間、押えつけられてきた人々の心は、政治に服務する革命の様板歌(模範の歌)にとっくに興味を失っていたのである。海外とつながりのある人は、早速テレサ・テンの歌を大陸に持ち込んだ。その甘く繊細な歌声、家族への想い、恋、郷愁、そして人生の嘆きを訴える歌の数々は、10億の民に失われて久しい自然の情感を呼び起した。
テープを買える「音象店」(レコード店)もなく、情感を歌うような曲は公式のメディアでは決して放送されなかった時代に、人々は粗末なレコーダーを使ってテレサ・テンの歌をコピーし続け、1年余りの間に大陸中に広まっていったのである。
テレサ・テンの声は人を惑わし頽廃的として当局の反感を買い、大ヒット曲「何日君再来」が出た後、彼女の曲は放送禁止となった。その一方では青い蟻と言われた単調なデザインの軍服や人民服スタイルに飽きた若い人たちは、次々に髪を伸ばし、先の広がったラッパ・ズボンを穿き出した。この奇妙な服装は上からの禁止に遭い、公衆の面前でズボンを切られたり、公的場所に入れないなどの待遇を受けたが、それにも関らずラッパズボンは流行していった。公式の歌の大会では「中国、赤い太陽は永久に沈まない」などと歌っているが、家に帰るとこっそりテレサ・テンのテープを聞いていたのである。小鄧(テレサ・テンの中国名は鄧麗君)の人気は鄧小平氏を上回るほどで、「老鄧より小鄧の方がいい」という声が四方で囁かれた。
「1949年に共産党が都市に入ると、一刀の下にあらゆる市民文化を切り捨てました」と、北京日報の文化部副主任で、文化評論家の解璽璋さんは言う。解放後には伝統芝居も、伝統講談の説唱も禁止され、還珠楼主や張恨水などの流行作家は悲惨な最期を遂げた。その後、10年におよぶ文化大革命を通じて、大陸の通俗文化は殆ど整理され尽くしたのである。「本当に復興してきたのは、1979年に香港や台湾の文化が入ってきたからです。これらの文化は、市民の内心に蓄積された文化経験にぴったり合うものでした」と、香港や台湾の文化が好まれた理由を解さんは語る。
テレサ・テンの魅力は漣のように広がり、大陸の音楽家に影響を与え始めた。大陸では政権が代ってから、西洋クラシック音楽を主流とする時代が続き、民族音楽は亜流とされ、音楽関係者は1930年代以降の上海の流行歌を手に取ろうともしなかった。テレサ・テンが流行してから、文化大革命時代の革命歌曲を歌いなれた文芸団体は、こんな歌い方もあるのだと気づいたのである。中央歌舞団所属の湖南の花鼓戯の名優李谷一は、1979年に初めてテレサ・テンの発声法を使って「郷愁」を歌った。これは長年続いてきたベルカント方式の歌い方に背くものとして多くの批判を浴びたが、一般には人気を集めたのである。その後、朱逢博や程琳などの文芸団体所属の歌手も、これにならいだした。
1980年代前半には、台湾のキャンパス・フォークが次々に大陸に入っていき、漣の第二波となっていった。前回のテレサ・テンと異なるところは、今回の波が羅大佑やキャンパス・フォークを代表とするヒットソングで、より若い学生の心に訴えかけた点である。1980年代前半の社会の変化には特別な意味があると、大陸の音楽評論家金兆鈞さんは言う。文化大革命の極端な反右派の荒波が過ぎてみると、中国の問題は共産党や発展段階に止まるものでないことに知識分子は気づき出した。より広く民族や歴史文化の問題が見直されて、文化への熱が高まり、西洋の美学や哲学が次々に紹介されるようになった。それが文学に反映して傷痕文学、五七文学、改革文学と発展を続け、芸術においては星星画展からポップ・アート、現代アートへとつながる。
「あの時代は理想に燃えていて、未成熟でしたが国家のために何ができるか真剣に考えていました」と、王暁峰さんは言う。羅大佑の社会批判的歌詞、民族全体の情感に訴える歌は、若者に広く共鳴を呼んだ。大陸で30歳以上の人の多くが、羅大佑を今も好む。北京喜洋洋文化社の陳梓秋さんは、「浅薄を拒否する世代」と自称する。それによると、大学時代に羅大佑の影響を強く受け、その深い生命力には今も感動すると話す。
その一方で、キャンパス・フォークは自然回帰の清々しいスタイルを引っさげ、純粋な音楽として、文化大革命後に成長した世代が自己と自然を取り戻すきっかけとなったと金兆鈞さんは話す。その頃ヒットした「オリーブの木」や「田園の小道」などは、人の心にある遥か遠くの理想境シャングリラへの憧れを歌って、若い学生を引き付けた。
社会の主流となる価値観が、まだ流行歌の意義を認めていなかった1980年代初頭に、小さい頃からクラシックや民族音楽を勉強してきた音楽青年たちに台湾のキャンパス・フォークは新しい音楽の窓を開いた。「流行音楽の形式とは単なる器に過ぎず、その形式は頽廃の声とか没落腐敗とイコールではないことに、人々はやっと気づいた」と、金兆鈞さんは1996年に発表した「歌壇10年物語」に書いている。崔健、王彦軍、呉海崗、李海鷹など、その後大陸の音楽シーンをリードする人たちは、台湾や香港のキャンパス・フォークを聞きながら、そこに潜む流行音楽の幅広い可能性を知ったのである。
台湾のレコード業界の発展を振り返ると、最初の段階では英語の歌のカバーが中心であったが、大陸では最初からカバーの対象が台湾ポップスであった。1980年代初頭に起った海賊版テープの流行がそれである。「音楽業界は急速に発展し、太平洋影音公司は1年で何と800万巻のカセットを売りました。1980年代初期という低い生活水準の下で、一つ5.5人民元という高価なカセットがこれほど売れたのは驚きに値します」と金兆鈞さんは話す。
1980年代の後半になると、香港や台湾の多様な音楽と巨大な流行歌市場との刺激に触れ、ついに大陸自前の音楽誕生を促すことになった。1987年前後には、クラシックなどの正規の音楽教育を受けた作詞、作曲家が先頭に立ち、台湾や香港の音楽とは異なるスタイルで、勇壮な北方の民族音楽の旋律とロックの編曲を組み合せて、批判精神に満ちた歌詞の曲を生み出し始めた。「あほうどり」や「黄土の丘」などで、それがあっという間に中国全土に広まり、この流れは「西北の風」と言われた。同じ頃、崔健はロックのシャウト歌唱法を引っさげて登場し、「世界を愛で満たそう」という歌手100人コンサートで人気を攫った。その「一無所有(何一つとしてない)」は、この時代の名曲となったのである。北京青年報の記者はのちに広く伝えられる名言「崔健の一無所有が出てから、中国の流行音楽は何一つなくはなくなった」と言った。
「あほうどり」の無念さ、「一無所有」の叫び、「熱愛する故郷」の批判精神に共通するのが重い憂国憂民の基調で、1980年代以降の社会が歴史や文化を振返り反省していた時代の精神を表現していると、金兆鈞さんは言う。文壇では大作『河殤』が生れようとしており、一般の人々は「西北の風」の歌に自分の感情の捌け口を見出した。1987年から89年の大陸での音楽シーンは、香港や台湾との間に意識して境界線を引こうとしていたとも言えるのである。
しかし西北の風が流行していた時期であろうと、台湾のヒット曲がまったく舞台から降りてしまった訳ではない。1987年に台湾から大陸への親戚訪問が解禁されたのに伴い、大陸当局は正式に音楽テープの持込みを認めたため、台湾歌手の蘇芮と斉秦が大陸に大きな影響を与えた。
蘇芮の歌声は1984年の映画「乗り違え」の主題歌として大陸に伝わり、その後リリースした「同じ月の光」や「酒瓶売らんかな」などの曲の文学的雰囲気が、大陸の前衛思想の若者に受入れられ、次いで一般に広まっていった。それまでのテレサ・テンに代表される繊細で柔らかい歌声一辺倒の状況を、蘇芮の叫ぶような豪快な歌唱法が一変させて、新しい歌唱法への道を開いた。「潜在力を持っていた女性歌手の、那英、杭天琪、范琳琳などが、蘇芮を目標としました」と王暁峰さんは言う。
斉秦は1987年のアルバム「狼」で大陸に進出し、10年前のテレサ・テンのようにわずか数ヶ月で全土を席捲した。「台湾の影響力のある歌手は三世代に分けられ、テレサ・テンや劉文正は第一世代、羅大佑は第二世代、その次が斉秦です」と、中国ブロードウェイ誌の副編集長丁寧さんは言う。今年23から28歳くらいの年代の若者たちは、斉秦の影響をもっとも強く受けて育ってきた。その影響は単に歌に止まらず、人生観につながるもので、独り風の中に立つと言う孤高の精神と自負とが、若者の憧れを掻き立てた。アマチュア・ミュージシャンでもある丁寧さんは、今も斉秦を目標としている。
「斉秦の反逆と羅大佑が歴史に確立した反逆とは質が違います」と、王暁峰さんは言う。斉秦は個性がはっきりしていて、当時の若者に自己主張の力を与えたので、広く共感された。斉秦の最初の北京コンサートを丁寧さんはよく覚えていて、「その冬、北京では長い白のマフラーが流行していました。斉秦が会場を離れる時には、女の子たちは卒倒しそうになり、斉秦に触ってもらおうと、二階前列の人は誰もがマフラーを長く垂らしたのです」と語る。
1989年、流行歌は次の段階に入る。カラオケが大陸に導入されて急速に発展し、同年末には北京だけで70軒以上を数えた。当時、北京、上海、広州などは都市化をある程度達成し、個性的で流行の娯楽への欲求が高まっていた。さらに天安門事件の挫折を経験し、大陸のミュージシャンは音楽では何も変えられないと気づいて、商業的な香港や台湾に学び出したのである。大陸の個性的な作品は減り、香港や台湾のヒット曲がカラオケの需要を埋めていった。
一方では1989年以降、全国のテレビ局、新聞雑誌などが市場指向の経済、音楽、生活、娯楽などに多くを割くようになっていき、ヒット曲の需要が急増した。マスメディアの発達も、台湾の流行歌の人気を押し上げたのである。
この時期になると、台湾や香港でヒットしたものは何でも大陸でヒットし、さらに多くの歌手や歌が大陸の正式な許可を受けて進出していった。台湾では童安格、趙伝、小虎隊、張雨生、王傑、潘美辰など、香港ではアンディ・ラウなど四天王が1990年代初期に人気を誇った。カセットテープの売上はすぐに数十万から100万巻に上り、大都市でのコンサートに台湾や香港の歌手がこないと、人気を呼ばなくなってしまった。
「追っかけの時代が来たのです」と王暁峰さんは言う。これ以降は羅大佑、蘇芮、斉秦など人の心に訴えかける歌は影を潜め、ファンは自分の好きなアイドルを捜し求めそれに夢中になった。
一般の好みの変化は、大きな環境の変化につながっている。
「それは経済の大変革の時代でした。1980年代の前半が理想主義とすると、90年代前半は現実主義だったのです」と金兆鈞さんは言う。1992年、鄧小平氏が南方を視察し経済方針を発表してから、大陸は改革後の再度の改革時代に入った。経済は急速な発展を続け、パソコンが市場に出て2年もすると、今度はISDNネットが普及し、自家用車が増え、不動産は高騰し、医療システムは保険に切替えられ、社会の急速な変化が人々の価値観を変えていった。
「90年代の基準はリラックス、ユーモア、生活です」と、文化評論家の解璽璋さんは言う。
こういった時代の雰囲気において、台湾の歌が描く繊細で身近かな世界は、大陸の壮大だが空虚な歌詞よりも、より広く共感を呼んだのである。「家に帰らない人を愛し」は北京警察や警察の家族が好んで歌い、李宗盛の「17歳の女の子は実はあれなんだ」は、北京の若者のストリート文化にマッチした。
2年ほど前、任賢斉は「気弱すぎて」で大陸を風靡したが、実はこれは音楽がよかったと言うより、大陸社会の急速な変化についていけない10億の人のやるせなさを突いたからだと言われる。
その一方、大陸の人の目から見ると植民地文化の影響の少ない台湾の方が香港の流行歌より大陸文化にうまくあい、コミュニケーションできると見られている。
「1990年代以降の社会の新しい言語表現と言うと、一つは王朔(ユーモアと皮肉で知られるベストセラー作家)で、もう一つが台湾ヒットソングの歌詞なのです」と金兆鈞さんは話す。若者向けの新聞北京青年報、北京晩報などの編集者は、互いに新しい言語表現の巧妙さを競っている。伝統文化の側から批評は出るものの、この傾向は今も続いているのである。
市場経済に湧き立つ中、大陸のミュージシャンも市場の観念を身につけ出した。レコード会社も正規に版権を取得し正式なルートでリリースするようになったと、王暁峰さんは言う。以前の大陸のレコード業界では海賊版か、多くの歌手を集めてヒット曲をカバーしたヒット集を出すのが普通だったが、1993年には歌手と正式契約をすることが多くなった。大都市のレコード会社は企画、プロモーション、プロデュース、マネジメントのシステムを確立し、歌手の商業化を推し進めている。
北京の一流ミュージシャンを集めて製作された艾敬のアルバム「私の1997」は、絨毯爆撃式のプロモーションもあって、女崔健を売物にした艾敬を一挙にスターにしてしまった。艾敬はその後台湾でも2枚のアルバムをリリースしたし、最近では日本のソニーレコードと契約したと言う。去年台湾にやってきた大陸の歌手では毛寧や、1995年に台湾でリリースした「姉の太鼓」が評判になった朱哲琴なども、大陸のレコード会社がデビューさせた歌手である。
金兆鈞さんの分析によると、この時期の流行音楽はそれまでの西北風に見られた濃厚な民族的色彩こそ薄くなっていたが、歌手のイメージ戦略を重視しすぎ、作品の内容を疎かにしていたと言う。そのため、大陸市場でのヒットソングを生み出せなかった。
香港と台湾のヒット曲が大陸のレコード市場を占め、総額10億人民元に上る音楽市場のうち、流行歌が80パーセントを占めているが、そのうち香港と台湾の作品がさらに8割を占めており、10年来この構造は変っていないと、北京喜洋洋文化発展公司の陳梓秋さんは言う。香港に比べても台湾は言語の面で有利で、大陸で安定成長を続けている。台湾の業界の音楽市場の運営手法は成熟しているが、大陸の業界はまだ把握しきれていないと、陳梓秋さんは述べる。
「現在、大陸の流行は台湾の流行文化の流れに沿っています」と、音楽評論家の戴方さんは言う。音楽ファンの世代交代が進む中で、音楽産業は今も模索の最中である。
最近、北京から来た少年バンド「花児」が台湾のファンに注目され、口コミでアルバムが大ヒットした。花児は1998年に北京でいくつも結成された新しいロックバンドの一つで、他にも「清醒」や「新褲子」なども注目されている。
「この世代の若いバンドは、音楽への意識も生活態度も個人的体験に傾く傾向があります」と戴方さんは言い、崔健や唐朝などの世代と比べるとやや浅薄だが、より生活の現実に近いと見る。
「花児」は16、17歳の高校生が結成し、Green Dayの音楽を好んで、パンクの曲を歌っている。その内容は両親との行き違いや、高校生の生活のあれこれが主で、曲は短く2分足らずである。「崔健が君たちの曲を好きだって言ってるけど、どう思う」とマスコミに聞かれ、彼らは「うそだろう。俺たちは彼の曲好きじゃないもん、彼が俺たちの曲を好きになる筈ないよ」と答えたのである。
花児のスタイルは、台湾の徐懐鈺の「怪獣」や張震嶽の「パパ、金、金くれよ」を思い起させる。どうりで、台湾のポップス界にも最近は北京の風が吹き始め、人気歌手の莫文蔚や楊乃分が花児のカバーを歌っているし、蘇慧倫は「新褲子」の曲を歌っている。
「どうして張震嶽の曲が大陸でヒットしたのでしょうか。大陸で製作され、男女の愛情生活を描写した映画の『ラブ、スパイシー・スープ』が台湾でもヒットしたのはなぜでしょうか。この時代、東京、台北、北京の若者が考えることは同じなのです。若者文化は時代と共に、大きく変っているからです」と、大陸魔岩レコードの羅異さんは言う。
「流行音楽がこの時代と異なる姿を見せられると思ってはいけません」と台湾のベテラン・ミュージシャン陳楽融さんは言ったことがある。時代毎にその時代の物語がある。2000年を向えた大陸と台湾のヒットソングの世界、その歌声の中にあなたは何を聞き取るのだろうか。