各種食文化の体系
過去四百年、台湾はオランダ、スペイン、日本に統治され、融合という台湾料理の特色が生まれた。
台湾に最も早くから暮らしてきた原住民族は、漢人の影響を受ける前、独自の食文化を有していた。醒吾技術学院観光学科の卓文倩主任はその論文「国賓晩餐会メニューに見る我が国の食文化と政治的変遷」の中でこう指摘する。かつて原住民族は粟を主食とし、それに加えてサツマイモやタロイモを栽培していた。ブヌン族とタイヤル族の人々は狩猟で得た肉を副食とし、アミ族は100種以上の野菜を食用していた。
清代に入ると、大陸の福建や広東から漢人が移住してきて山林を開墾し、彼らの故郷の味である福建料理が台湾料理の源流となる。卓文倩は、福建料理は薄味で油が少なく、装飾も少ないと指摘する。福建南部では余った農作物を干して漬物にする習慣があり、この習慣は台湾でも受け継がれている。
続いて、客家の人々が移住してきた。台湾へ移住した時期がやや遅かったため、彼らは丘陵や山地を開墾するほかなかった。食物を保存し、食欲を刺激して体力をつけるため、客家料理の多くは塩辛く、香りが強く、油を多く用いる。梅干菜、福菜(漬物)、紅糟(酒粕)などを用いるのが特色だ。
これら大陸の故郷の味の他に、小吃(屋台などで食べる簡単な軽食/B級グルメ)が台湾独自の食の代表格と言える。
開拓時代、開墾地で働く人々のために、天秤棒を担いで食べ物を売り歩く商売が生まれた。生活が安定してくると各地に廟が建てられ、人々が集まる廟の門前に小吃の屋台が出るようになる。例えば、基隆の廟口夜市は奠済宮の建立(1875年)によって形成された。早くから開発された台南は夜市の小吃が非常に多く、大天后宮や武廟の門前には百年の歴史を持つ老舗の小吃も少なくない。
麺に豚のそぼろをのせて食べる「担仔麺」は台南生まれの小吃で、創始者は漁師の洪芋頭と言われている。台風で漁に出られない時期に副業で麺を売ってしのいだのが始まりだ。収入の少ない月を「小月」と呼んだため、「渡小月担仔麺」と呼ばれて人気の小吃となり、今は四代目が継いでいる。
夜市の小吃文化を研究している中央研究院民族研究所研究員の余舜徳は、小腹が満たせ、副菜にもなり、「ご飯」と「おかず」の間に位置するもの、あるいは「主副合一」の料理はすべて広義の「小吃」に入ると定義している。
「福建料理は羹湯(とろみのある汁物)が多い」と言われる。基隆の歴史研究者・曹銘宗の見方では、小吃の多くは福建料理から変化したもので、代表的なものは肉羹や魚羹などだと言う。しかし、一部の小吃は台湾で発明されたものだ。例えば、食パンの中をくりぬいて海鮮シチューを入れた「棺材板」などは洋食と中華を折衷した台湾独自の小吃である。
小吃は台湾で最もバラエティ豊かな庶民の食である。最初は天秤棒で売り歩いた料理が、人々の集う大樹の木陰や廟の門前に集まるようになり、それが小吃街(屋台街)を形成して、しだいに規模を拡大していった。