民間外交官
21歳から64歳の現在まで、スワジランドを皮切りにその後ドイツへ。そしてヴュルツブルク専門単科大学を始め、専門領域で15年間学んでトップクラスのライセンスを取得した。「自分に足りないものがあると思うと学校に行って学びました」と言う。その間、貴金属会社5社でデザイン・ディレクターを務め、またドイツのミッテルフランケン地方で宝石金銀細工及び宝石組合の理事長も務めた。学術機関で学ぶかと思えば、宝石練磨技術を高めるために中国の深圳にも赴き、またある時は病気の母のために台湾に帰国し、輔仁大学応用美術学科で教えたり、台湾工芸研究発展センター鶯歌マルチメディア研究開発分館の刷新にも加わった。台湾とタイの区別もつかないドイツ人に説明するうち、台湾文化に興味を持ち、文化交流に打ち込むようになったと本人は言う。この数十年に世界を巡り、台湾を世界に向けて発信する彼は、立派な民間外交官だと言える。
では、何が彼をドイツへと向かわせたのか。
人生には偶然と必然が混在する。国立台湾芸術専科学校彫塑科卒業の彼だが、芸術の才に恵まれ、早くも13歳で学校を休学して台北職業訓練局のデザイン・コースに申込む。そこでは印刷やデザイン画など、あらゆるものを貪欲に学んだ。だが彼にとって、学校の教科書をすべて合わせても、1973年出版の張心洽著『珠宝世界(ジュエリーの世界)』に勝るものはなかった。
張心洽は台湾初の開発銀行家であり、曽国藩の後継者であったが、中華民国で初めて米国宝石学会(GIA)の証書を取得した人物でもあった。彼の著した台湾初の宝石学の書『珠宝世界』は、子供だった阮文盟の心に種をまいた。
こうして芸術の道に進んだが、最初から金工をやったわけではない。一歩一歩探索が始まる。
芸専(現在の台湾芸術大学)彫塑科で、阮文盟は透視図法の基礎を学ぶ。「平面より立体のほうがおもしろく、奥が深いことに気づきました」思いがけず、卒業後すぐ国の海外技術合作委員会(略称「海合会」。国際合作発展基金会の前身)手工芸技術団の最年少の一員として、木彫指導のためにスワジランドに派遣が決まった。当時、外交部(外務省)と海合会の間でコーディネート役を担当していたのが「ミスター・アフリカ」と呼ばれた楊西崑で、阮文盟と台湾の外交関連部門との長く深い付き合いは、この時から始まる。
「ドイツ留学しなかったら、外交部で働いていたかも」とは言うものの、公務員や外交官の真面目さが自分には欠けているとも認める。ただ、芸術に関する創作、展覧、教育のすべてで、彼は台湾のために国民外交を実践してきた。
アクセサリー(2016) 41.5×14×40㎝ 黄銅、翡翠