生涯の業績を評価される国家文芸賞という大賞を受けたが、闊達な気性の夏陽氏はそれほどどうとは思っていないようである。これまでの流浪と運命に逆らった日々を思うと、多くの人に評価された今回の名誉は、本人よりも友人たちのほうが喜んでいるように見える。
本名夏祖湘という夏陽氏は、1932年に湖南省湘郷の名家に生れた。家族との縁が薄かったのか、生れて1年足らずで母が亡くなり、次いで6歳の時に父も世を去った。その頃は戦乱があちこちに広がっていたため、祖母は夏陽を連れて四川に避難し、7歳になった頃に南京の故居で辛うじて残った屋敷に帰った。9歳で祖母が亡くなり、父方の大叔母に預けられるが、13歳でその大叔母も逝去する。まだ子供だった夏陽は漢口の叔父の元に行くが、叔父は長沙の兄を頼れと言う。兄は兄で弟を養う力はなく、たらい回しされた挙句に16歳になった夏陽は従軍することに決めた。少なくとも食べられるだろうと思ったからである。
「あれほどの一族が、あっという間に崩壊したのです」と、子供時代を淡々と語る夏陽は、世の中の浮沈みと生の儚さを悟ったかのようである。
夏陽が従軍したその年、国民党軍は台湾に撤退する。夏陽は軍に従い台湾にやってきて、空軍本部で文書を担当した。偶然にも、宿舎の上のベッドに寝ていた呉昊も絵の好きな少年で、二人は親友となり、一緒に台湾現代絵画の大御所であった李仲生の安東街の画室で絵を学ぶことになった。そこで欧陽文苑、霍剛、蕭勤、李元佳、陳道明、蕭明賢などの志を同じくする若者と知合い、ともに東方画会を結成して八人の侍と呼ばれるようになり、現代美術をリードして行くことになる。この画室で絵を学んだことについては、夏陽は笑いながら「李先生のところは授業料が安くて、自分でも払えたからですよ」と話す。
当時、他のアトリエでは月45台湾ドル以上の授業料を払わなければならず、台湾人の大家のアトリエでは60から70台湾ドルも必要だった。1ヶ月の給料が25台湾ドルに過ぎなかった夏陽にとって、どのように節約しても払える額ではなく、月20台湾ドルでよかった安東街画室しか通えなかったのである。
その時代、台湾は貧しく情報も閉ざされていたが、芸術を愛する若者の情熱には影響しなかった。絵を習い始めた頃、軍隊では黒と赤のインクと鉛筆しかなくて、これを使って描くしかなかった。インクに糊を混ぜて、油絵のような質感を生出す工夫もしてみた。何とかお金を貯めても、油絵の具1色分しか買えない。他の色を買えるようになるまでは、時折蓋を開けてリンシード油の匂いを嗅いでいたという。何を描くかと言うことになると、互いに上着を脱いでモデルになる。時には台北の駅前のアイスクリーム・パーラーに出かけ、スイカ一皿を頼んで一日座りこみ、店の客を相手にクロッキーの練習をした。
1955年、李仲生先生は反対したが、アトリエに集る若者たちは戒厳令下での結社の危険性も意に介さず、東方画会を結成した。会は賑やかな中華路で展覧会を開催し、多くの人が入場料を支払って展示を見たが、現代芸術を受け入れられる人は多くなかった。大部分の人は騙されたように感じ、怒ってパンフレットを叩きつけ、こんなものでも5銭もするのかと怒鳴った。これを思い起すと、夏陽は今も胸が痛むという。
八人の侍と称された熱血漢たちは宣言を発表し現代美術の旗を掲げ、古い形式を死守する中国の伝統芸術は没落すると考えた。世界性を持つ現代の表現形式を取り入れなければ、中国の芸術の宝庫は新しい表現を持ち得ない。夏陽が起草した宣言を見ると、中国伝統芸術を現代的に表現しなおすことが、この東方の才子たちの理想であったことが分る。その実践の手法と言うと、西洋の芸術理論と手法を広く取り入れ、中国的意味内容を持つ創作と融合させたものである。「中国」を堅持することが、夏陽の創作の基調であった。
わずかに残された初期の作品を見ると、夏陽はその頃中国民間芸術に特徴的な太い線で伝統的人物を描き、西洋の機械主義によって人物を分解し再構成していった。その作品「飛天」では、仏教の飛天仙女を幾何学的な現代的造型で描き、虚無的な空白の画面に漂わせた。「宇宙飛行士が重力を失ったような状態の飛天にはシュール・リアリスティックな感覚があります」と美術評論家の王嘉驥氏は言う。夏陽はまた中国芸術で一番重要な要素、線にのめりこんでいき、線だけで抽象的な絵画表現を試みたのである。
画会設立のその年、八人の侍の一人蕭勤が留学した。台湾に書いてよこした航空書簡には、ごま粒のようにびっしりとスペインで経験した芸術の新しい運動が書かれていて、他の7人もこれに影響されて実験的絵画を始めたのである。情報が極めて限られていた時代のことで、芸術を学ぶものは誰もが留学を望んでいた。李仲生でさえも手紙で、国外で必要な最低の生活費を問合せている。
西洋へ、現代美術のメッカへ行きたいと、八人の侍は次々と国を後にした。蕭勤の後を受けて李元佳が留学し、芸術の都フランスに憧れた夏陽も1963年、基隆港から香港に向った。空軍本部の同僚張傳忍が貯金全部をはたいて持たせてくれた5000台湾ドルで、まずミラノまでの船の片道切符を買って蕭勤を頼って行き、それからフランスに向うことにしたのである。蕭勤に会ったときのことを今も覚えている。彼の最初の言葉は「さあ描いて見ようや」であった。幼い頃に両親をなくし、親戚をたらい回しにされた夏陽にとって、友人たちの暖かい友情は忘れられないものとなった。
フランスでの4年半、夏陽は二坪にも満たず、背も立たないような裏町の屋根裏部屋に暮した。生活のためには屋根の修理、水道電気工事、家具の修理など何でもやらなければならなかった。生活面でも精神的にも苦しい毎日だったが、創作ではずっと続けてきた線の探求に、このときやっと一つの答が見つかったのである。彼の「毛毛人」の時代の始りだった。
入り乱れ交錯する線の中から、夏陽は人でも物でもない線の塊を描き出し、その中から人の姿がうっすらと浮び上がってきたと言う。「これならいいと思いました」と夏陽が言う通り、こうして生れた毛毛人は自然に形成されてきたものである。芸術家にとって一番重要な要素、自分だけの特別な表現を夏陽はここでつかんだ。
中国の民間信仰の道士が書くお札のように、線だけで人の形を作り、文字で力を呼び起す。夏陽は短く震えて動く線で、動きがあるながら捉えどころない人の形を作り上げた。顔もなく表情もない毛毛人は、きっぱりと太く硬い線で描き出された場の中で、冷たく非情にその役割を振り当てられて、現代生活の冷酷な疎外感を反映しつつ、時間と空間が入れ替ったような幻想をつむぎ出す。
毛毛人は、一生を漂泊に過した夏陽そのものだという人もいる。しかし、聖人豪傑であろうと車夫馬丁であろうと、どれもこの世に浮び漂う限りある存在である。「中国人がよく言うように、人はこの世を過る客で、あっという間に消えて行きます。夏陽の毛毛人はこの東方の哲学を表しているのです」と第4回国家文芸賞美術部門の審査員傅申氏は言う。
毎日は相変らず漂うばかりである。アメリカの友人が「こちらのほうが生活は楽だ」と手紙に書いて寄越したので、夏陽はヨーロッパからアメリカに渡った。ニューヨークのソーホーに広いロフトを安く借りて、骨董家具の修理で口に糊する生活が始まった。
当時のアメリカは、フォトリアリズムが流行となっていた。夏陽にはこれを受け入れにくいものがあったが、アメリカに来たからにはこれを学んでもいいとも思い、また経済的な理由もあって、その画風は捉えにくい姿の毛毛人から、売りやすいフォトリアリズムに変っていった。カメラのシャッタースピードを変えるテクニックを利用し、行き来する人物の姿をおぼろにぼかし、写真のように写実的なニューヨークの町を、幻想のように歩かせた。この朦朧とした人の姿に、毛毛人の表現が生きている。
ニューヨークに20年余りを過し、日の当らないロフトにこもって、夏陽は中華料理を食べ、中国伝統の京劇の音楽を聞き、壁には世の中の姿を気ままに、文語と口語入交じって書いた戯れ歌が貼り付けていた。ニューヨークの中国租界に住む中国人だったと、夏陽は笑う。
ニューヨーク生活の最大の収穫は、妻呉爽熹さんと知合えたことだろう。裕福な家庭に育ち貧乏を知らない哲学博士の彼女は、画家謝里法氏の紹介で夏陽と知合い、静かで簡素な生活を共にすることになった。「女房は慌てもせず窓の外を眺め、日は間抜けなほど味わいなく過ぎ、阿呆と間抜けが手を携える」と夏陽が戯れ歌に書いたように、中年過ぎてのこの夫婦には水のように飽きの来ない関係があった。
1992年、台湾を離れて30年が経ったが、画廊との契約が整い生活費の目途が立って、夏陽は台湾に帰って来た。北投の山の中に日当りがよく、天井の高いアトリエ向きの家を借りた。だが家賃3万5千台湾ドルの家は確かに高い。借りた時、間抜けの妻は家賃が払えなくなると心配しすすり泣いた。幸いなことに、国立芸術学院の黎志文教授が帰国後3年の間、毎月1万台湾ドルを支援してくれて、夏陽夫妻はやっと落着くことが出来たのである。何も大した事をしてもらわなくとも、そのタイミングが重要だったと夏陽が言う通り、留学と帰国の大切な時、どちらも友人が資金を援助してくれた。寡黙な夏陽だが、この友人の恩義を忘れることはない。
懐かしい故郷に帰ってきてから、夏陽はまた毛毛人シリーズに戻って行った。夏陽と共に地の果てを回ってきた毛毛人は、様々な姿で新しい意味を加えられてきた。裁判官、歌手、夫婦、海辺の美女などに姿を変え、時にダビンチのモナリザ、ミレーの落穂拾いの農婦、ボッテチェリのビーナスに変身したこともある。現在では中国の神仏シリーズとなり、人間の心の中の神仏の姿を探る。済公、関羽、門神、八仙などが毛毛人シリーズに入ってきた。夏陽にとっては、それが誰であろうと結局は画家の筆の下のモデルに過ぎず、最後は無に帰っていく。
なぜ毛毛人に執着するのだろうか。新しい画風は作ろうと思って作れるものではないと夏陽は言う。その毛毛人も自然に生れたもので、自分でも次のテーマやスタイルがいつ出現するかわからない。
去年の末、夏陽の毛毛人が立ち上がり、平面的絵画から立体的作品になった。そのきっかけは、ドライヤーが壊れたことである。修理しようと分解したところ、中からアルミコイルが出てきて、それを弄ぶうちに立体的な毛毛人ができたのである。そこから毛毛人の立体像のアイディアが生れた。銅や鉄片、ステンレスなどを電動工具で切り開き、よじって曲げ、立体になった毛毛人は触ることのできる形を得て、よりユーモラスになった。
夏陽の彫刻作品を、友人は意外に思わなかった。ニューヨーク時代、夏陽は器用に板と鉄鍋を組合せて手動の洗濯機を作り、扇風機のモーターで自動的に上下するイーゼルを作った。捨てられたミシンや、カメラのレンズも、その手にかかると便利な道具に生まれ変る。「西洋にダビンチがいれば、東洋には夏陽がいる」と彼は笑う。
東洋に戻り、その昔画壇に鳴らした八人の侍を思い起すと、陳道明は商売に鞍替えし、李元佳はイギリスで客死、欧陽文苑は精神を病んで創作は出来なくなっているが、夏陽、呉昊、霍剛、蕭勤、蕭明賢は相変らず創作を続けている。2年前の侍の会で、夏陽は「自分たち浪人魂でもう一回やろう」と意気盛んだった。芸術家はすべての精神を創作に打ち込まなければ、新しいものを生み出せない。こういった純粋な創作精神を持ちつづけ、芸術に忠誠を誓う彼ら、かつての侍たちは今も健在である。
中古のレンズに手作りのボディを合せれば、プロ用のカメラができあがる。東洋のダ・ヴィンチと呼ばれる夏陽氏は、骨董家具修復の名人でもあり、人が捨てた物をうまく蘇らせることができる。
この一枚の紙には1979年当時のニューヨークでの全財産が記されている。ペニー、ニッケル、ダイム、クォーター硬貨の数がそれぞれ数え上げられているのである。
アメリカに暮らしていた頃、夏陽氏はフォトリアリズムのスタイルで飄飄人のシリーズを創作した。作品「選挙」油絵230×120cm 1989
西洋の名画「ビーナスの誕生」も毛毛人のモデルとなっている。朦朧とした顔は、美の象徴としてのビーナスへの疑問だろうか。アクリル130×194cm 1997