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1995年生まれ、今年26歳の胡鈞媛は大学入学まで真面目に勉強し、勉強以外のことには興味を持たない子供だった。「高校生の時、中東の民主化運動『アラブの春』が起こりました」その後は残酷な戦争が起きてヨーロッパで難民危機が発生したが、高校生にとっては、世界的な事件もニュースのひとつに過ぎなかった。
「私は大部分の台湾人と同様、ニュースを見て悲しく感じていましたが、それは遥か彼方の出来事で、高校生にとってはさらに遠い世界でした」と言う。ところが3年後、成功大学中文学科に入学した胡鈞媛は、外交部が募集する国際青年大使に応募し、初めて世界に目を向け、大きな変化を迎えることとなる。
1951年、第二次世界大戦の被害を受けた人々のために国連で「難民の地位に関する条約」が採択され、続いて1967年、難民が世界的な課題になった時には地理的‧時間的制約を排除した「難民の地位に関する議定書」が採択された。現在すでに世界各地の難民のために奔走している胡鈞媛は、さまざまな経験を積んでおり、愛らしい笑顔の中に強い意志を感じさせる。なぜ難民に関心を注ぐのか、と問うと「『難民』という言葉の定義をご存じですか」と問い返された。
難民とはどんな人なのか?
「1951年の難民の地位に関する条約と、1967年の難民の地位に関する議定書の規定は、保護を求める者には、国籍の有無にかかわらず適用されます」と言い、胡鈞媛は条約の内容を流れるように暗唱する。「民族や宗教、国籍、もしくは特定の社会的集団の構成員であること、あるいは政治的意見などを理由に迫害を受けるおそれがあるという正当な理由から国籍国の外にいる者で、そのおそれから国籍国の保護を受けることを望まない者、あるいは国籍を持たないが、上記の事情で常居所を有していた国以外の地域にいる者で同国へ帰ることを望まない、あるいは帰れない者を『難民』と呼ぶ」
「距離感がありますよね。私も最初はそう思いました。この定義を聞いても何も感じないのです」と言う。青年大使を務めていた時、胡鈞媛は青年外交を目的に海外を訪問した。「青年大使の任務を通して、もっと世界を知りたいと思うようになりました」と言う。その後も大学時代に海外を訪れ、そこで目にした戦争と難民が彼女を変えることとなった。「私は大勢の難民と知り合い、難民キャンプやその地域社会を目にしました。自分の2メートル先で閃光弾が炸裂したこともあります」と言う。生まれて初めて生死のはざまを経験し「難民という二文字が頭から離れなくなったのです」と言う。
自由で民主的な台湾で生まれ育った彼女は、初めて「難民とはどんな人なのか」と考えるようになった。

長年にわたって難民キャンプに暮らすことで、子供たちのアイデンティティがどうなっていくのかが難しい課題となる。写真はレバノンのベッカー高原にある難民キャンプ。
青年大使をきっかけに世界へ
大学1年生だった2014年、彼女は国際青年大使としてカナダとアメリカとベリーズを訪れて初めてNGOの活動に触れ、自分がもっと世界を知りたいと渇望していることを実感した。
胡鈞媛は、自分は頑固で実行力があると言って笑う。青年大使の任務が終わると、2年生の時には「世界公民島計画」の実践として、新住民(台湾人と結婚して移住してきた人々)や外国人労働者の問題に目を向けた。それと同時にアルバイトで資金を貯め、ベトナムから台湾に嫁いできた3人とともに故郷を訪れ、その里帰りの様子を取材してドキュメンタリーフィルム『把愛找回来(愛を取り戻す)』を制作した。
「撮影後はそのまま帰国する予定でしたが、たまたまタイからベルリンに向うチケットがわずか1万元で手に入ることがわかったんです」躊躇することなく直接ベルリンに行くことにした。彼女は今も、神が自分とドイツとつないでくれたと信じている。このベルリン行きが彼女の将来を大きく変えたのだった。
シリアの内戦は10年を超え、すでに21世紀で死者が2番目に多い戦争となっている。ベルリンに到着した胡鈞媛は、現地で多くの中東出身者の姿を見ることとなった。そうした中でシリア出身の若者と出会い、その若者は彼が暮らす場所——難民キャンプへ案内してくれた。「僕たちの国は戦争をしています。ここに逃れてきた僕たちを、ドイツ政府は条約に従って収容しています」と若者は片言の英語で説明した。
胡鈞媛は彼らと友達になった。一緒にいる時に、その一人に電話がかかってきて、母国に残っている家族が戦争で亡くなったことを知らされた。「死はいつ訪れてもおかしくない。生き抜くことはかくも困難なのです」
欧米や日本、韓国が難民支援に取り組む中、「難民と台湾人との距離が遠いことに気付き、私は驚きました」と言う。戦争難民に深い同情を寄せると同時に、彼女は使命感を持つようになった。「私を今日まで突き動かしてきたのは、自責の念と挫折感です。私と私の国は、難民のために何ができるのだろうと自問し始めました」

ヨルダンで、胡鈞媛は毎週末に都市農業NGOグリーティング・ザ・キャンプで実習し、パレスチナ難民とともに菜園を作り、地域の緑化を進めた。
難民から善意を受ける
胡鈞媛はベルリンを後にするとヨルダンに向った。60ヶ国から来た75万人の難民を受け入れているヨルダンで、現地のNGOであるアンマン人権研究センターでボランティアとして働き、難民のための資金申請計画を立て、菜園を整備した。その後は、イスラエルと10年以上対立しているレバノンに行った。「面積が台湾の3分の1のレバノンが、どのように難民を収容しているのか見たかったのです」と言う彼女は、常にどうすれば台湾が難民庇護国になれるかを考えていたのだ。
彼女は、第三次中東戦争の後に設立され、すでに50年になるヨルダンのジャラシュ‧キャンプを訪れた。「難民の出身地との実際の距離は近いのに、彼らにとって故郷は非常に遠く、生涯帰国できないかもしれないのです」と言う。多くの難民は庇護国で市民権を得ていない。中にはボロのテントに暮らしている人もいる。「彼らはそこに住んでいても、そこに属さないのです」こうした難民のアイデンティティは世代を重ねて受け継がれ、解決しがたい問題となっている。
その後、彼女はパレスチナのヘブロンの町で、外国人記者と誤解され、目の前に催涙弾や閃光弾を投げられ、スカンクという臭い水の放水に遭ったりした。その瞬間、心に浮かんだのは「死ぬかもしれないという思いではなく、ああ、現地の人々にとってこれが普通の金曜日なのだ、という思いでした」
外国人が難民の信頼を得るのは難しいが、逆に厳しい境遇に置かれた彼らから善意を受けることは少なくない。胡鈞媛がバックパッカーとしてスウェーデンを旅していた時、道に迷って途方に暮れていると、中東出身と思しき一家が乗った車が、親切にも彼女を駅まで送ってくれた。「話をすると、彼らは庇護を求めてきた難民で、アルバイトしながら貯金しているということでした」それなのに、その家族の母親は、駅で彼女のために4000元もする首都までのチケットを買ってくれたのである。「こんな善意を受けるなんて。彼らの暮らしも楽ではないのに」と涙声になる。

胡鈞媛は毎週時間を作り、シリアの子供たちのためにアラビア語や数学の学習に役立つまざまなインタラクティブ学習ゲームを作った。
「聞きたいことは何ですか?」
彼女は大学に戻り、学業を続けながら難民のことを常に考えていた。「しかし、まだ学生の自分に何ができるかわかりませんでした。いずれにせよ、また世界を見に行こうと思っていました」そこで、行動力のある彼女はさまざまな計画を立て始めた。2016年、彼女は教育部に「大学‧短大国際学生国際体験教育計画」を申請した。外国の学生たちの中国語学習状況と、中欧および東欧での台湾の発展空間を理解するという計画で、計画は認められた。
そこで海外の多くの在外公館を訪ねた。2016年の夏、ハンガリーの在外公館を訪れた時、駐ハンガリーの陶文隆‧大使と会うことができ「聞きたいことは何ですか?」と問われた。この一言が、彼女の人生に大きな意味を持つことになる。
大使は、胡鈞媛が準備していた質問に答え終えると、再び「聞きたいことは何ですか」と問いかけた。そして大使は「この社会では、情報を集めるのは難しくありませんが、難しいのは正しい問いを持つことです」と語ったのである。
以来彼女は「聞きたいことは何ですか」と自らに問い続け、世界に問い続けた。問題解決のためのASK(Always Seek Knowledge)が座右の銘になった。「正しい問いを投げかけることで、自分の夢を見出せました」と、胡鈞媛は顔を輝かせる。「私の夢は自分の成功ではなく、人の役に立つことです」と言う。そして大学卒業を前に、「国際難民問題」を考えるためにロンドン大学大学院の教育および国際開発修士課程に進学することを決めた。
庇護を求める道へ
庇護を求める難民は多くの種類に分けられるが、彼女は主に戦争難民とジェンダー難民に関心を注いでいる。「この二つは人数は非常に多いのにも関わらず、リソースが少ないのです」と言う。膨大な人数になる戦争難民は、多くの国の庇護の対象となる。一方のジェンダー難民は、ここ数年ようやく取り上げられるようになった。多くの国でLGBTQが迫害されていることから生じる特殊な難民である。「こうした難民はジェンダー多様性に寛容な庇護国を見つけるのが難しいのですが、台湾はこの面で世界有数の多様性を認めている国なのです」
イギリスで修士号を取得した彼女は、帰国するとすぐにユネスコの青年研究院計画に参加し、それと同時にRefugee 101 Taiwanを設立した。さらに教育部青年発展署国際組で青年諮問委員も務めている。
彼女は各地で講演し、団体のカリキュラムを通して参加者に「難民法」と難民の境遇を経験させる。また海外の難民団体と台湾人権促進会の協力や会談を進め、台湾人と難民の交流の機会を積極的に設けることで、台湾が難民庇護国になる可能性を探っている。困難な目標を達成するには、まずじっくりとエネルギーを蓄える必要がある。難民に関する課題は一朝一夕に解決できるものではなく、胡鈞媛は自分が長い道を歩んでいることを知っている。
これからずっとこの道を歩んでいこうと思う原動力を問うと、胡鈞媛は穏やかな声でこう答えた。「当初青年大使に応募したのは、世界に台湾を——T.A.I.W.A.N.(The Amiable Individuals Welcome All Nations/友好的な人々がすべての国を歓迎する)として紹介したかったからです。台湾をそういう国にしたいという思いが私の原動力です」と言う。
胡鈞媛は、母なる台湾に永遠の憧憬を抱いている。「台湾には包容力、人権、自由があり、団結しています。そして常にもっと進歩すべきところがあると知っていて努力し続けているのです」と言い、目を輝かせた。「私は永遠に進歩し続ける台湾を誇りに思い、自分が台湾人であることを誇りに思っています」

胡鈞媛はパレスチナのヘブロンで抗争に巻き込まれたが、現地の人々にとってはこれが日常生活なのである。

スウェーデンで道に迷っていた胡鈞媛は、アルバイトで生計を立てているスーダン難民の一家に助けられた。この家族は彼女を駅まで送ってくれた上に、彼女がお金に困っていると思い、首都行きの高価なチケットまで買ってくれた。

さまざまな国から来て苦しい生活を余儀なくされていても、難民キャンプの子供たちはカメラを見ると明るい笑顔を見せる。写真はヨルダンのジャラシュ・キャンプ。