エイズ予防・独立独歩
時間は1986年3月に遡る。祁家威はマクドナルドでの記者会見でカミングアウトする。そしてエイズ予防推進と同性婚実現を目指すことを宣言し、AP、AFP、ロイターなど海外通信社が報道した。この国際的な記者会見が、台湾の性的マイノリティ運動の最初の足掛かりとなった。
祁家威は、建国中学(高校に相当)時代に先生や同級生に同性愛者であると告げたが、28歳になるまで公にカミングアウトしなかったのは、高校時代に友人の家を泊まり歩いていた頃、同級生の親が家族のように扱ってくれたからである。親世代が「誤解」しないように、ほとんどの友人が結婚して子供ができてから公表したのである。友人は、今では病院長、大学の学長、中央研究院(アカデミー)の研究員などになっている。
今では不治の病ではないエイズだが、1980年代は新しい感染症で、治療法もなかった。そうして同性愛者は蔑視され、エイズは「ゲイの病気」といわれるようになった。
祁家威は同性愛者と衛生署予防グループとの橋渡しを買って出て、エイズ予防をよびかけた。同性愛の話題がタブーだった時代に、奇異の目や批判をものともせず、花の精やミイラに扮して、細い体にパンツ一丁で、全身にコンドームを吊り下げて安全な性行為を訴え、夜市で寄付を募った。人々は恐れをなして避けて通った。
「宣伝はマスコミが頼りですが、目新しくなければ報道されません。そこで、パフォーマンスすることで新聞種になりました」祁家威の独立独歩は、マスコミ理論が基礎になっていた。
さらに民間検査機関の南昌検験院との協力でHIV匿名スクリーニングを実施し、性風俗従事者の無料血液検査、コンドーム配布を行い、HIV感染のリスク低減に努めた。そのために祁家威は巨額の債務を負ったのだった。
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2003年以来、性的マイノリティのデモ行進やさまざまな運動が行われてきたことで、各地に分散していた団体も支持を得ることとなった。