本土化した中華民国
1952年以降、中華民国の有効な支配範囲は台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖に限られ、そのときから中華民国は中国大陸という完全無欠の秋海棠(戦前の中国の領土を地図で見た形からの呼称)の領土から切り離されて、現地化への道を歩み始めたと林館長は考える。しかし残念なことに、民進党に政権交代する以前に長期政権として君臨していた国民党はこの歴史的事実に目を瞑り、大中国志向に耽溺していたため、草の根から身を起こした民進党の本土化にリードされてしまった。「国民党が今になっても自分の犯した歴史的過ちに気づかないというのであれば、歴史から這い上がることはできません」と彼女は重い口調で語る。
二二八事件の重い陰影を引き摺る台湾共和国論者は、中華民国の承認を国民党政権受容と同じことと考え、そこから中華民国が台湾主権を有する歴史的事実の受け入れを拒否しているのだろうと林館長は推測する。それと同時に、民族自決論を台湾に適用するにも盲点があると林館長は指摘する。「日本の植民地であった時期に、台湾自身が民族自決に向ったわけではありません。最終的に台湾の植民地支配を終らせたのは、日本との戦争に勝利した中華民国政府です。確かにそれは外来政権ではありますが、植民地支配ではないし、その支配範囲は台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖に限られておて、ここで現地化していきました」と説明する。
1945年に国際連合が設立され、各国が主権を行使する重要な舞台となっていった。しかしわが国は1971年に中国代表権問題が起きたとき、これに抗議して憤然と脱退してしまった。ところが国連憲章には今でも中華民国が創設会員国として記載されており、その国名はいまだに削除されてはいないのである。そこで林満紅館長は、日華平和条約の中華民国の定義をもって国連への復帰を申請することを提案する。これであれば中華人民共和国の中国代表権に抵触することはないし、中華民国が台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖の主権を有していることを国際社会に改めて宣言することもできるのである。
国家の領土境界線の設定で言うと、国際条約と国際法のレベルは憲法より高い位置にある。そこで林満紅館長は、わが国の憲法において「領土はその固有の領域による」と明記されていたとしても、日華平和条約での主権付与と国連憲章における中華民国の主権保障条項に基づいて、国連復帰を主張できると考えている。
政権交代と歴史解釈
2000年から現在まで、2回の政権交代を経ており、国史編纂という国史館の法定職務も、政権交代から微妙な影響を受けている。2001年、立法院で可決し総統が公布した「国史館組織条例」には、国史館の下に台湾文献館を増設すると明記されている。この時期の国史館が出版した『台湾ブラックタイガー王国』など、生活感にあふれて面白く読める台湾史シリーズを林満紅館長は高く評価している。しかし、その一方で1912年から1949年の中華民国史は軽視されてきた。
同じ時期、戦後の国民党政権の台湾接収初期に数多くの台湾人が殺害され犠牲となった二二八事件や、白色テロと呼ばれた台湾人に対する政治的迫害を記述する歴史書も大量に出版された。これを「国民党の台湾支配に外来政権の植民地統治という色彩を塗りつけようという意識的無意識的な操作で、国民党政権の時代に日本の台湾支配を見る歴史的視点と同じです」と批判する。
国民党政権の時代の国史館が国民党史と大中国主義で定義づけられていたのに対し、民進党時代には二二八事件や白色テロなどの政治的迫害に重きをおいた歴史研究に偏っていたが、林館長は就任してから中華民国史と台湾史の両方を平行した形で進めていきたいという。前者は1911年から1949年の中国における中華民国の歴史と、その後の60年の中華民国の台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖における歴史を内容とする。後者は、台湾の歴史全体を対象とする。この二つの歴史編纂事業が交わる潮目に日華平和条約が存在しており、これこそ1912年に成立した中華民国が国共内戦の後に残された金門、馬祖と接収した台湾及び澎湖諸島の主権を確立した時期である。
客観的な歴史で世界に繋がる
これまでの台湾史では鄭成功政権の時代や清朝の統治などについては「明鄭」「清領」などの呼称を用い、オランダ支配時代は「荷拠」、日本支配時代は「日拠」と呼称してきたが、これとは一線を画している。あたかも中国人の台湾支配には正当性があるが、それ以外の支配には正当性はないと言っているかのようだからである。そこで林満紅館長としては民進党政権下での国史館の方針を継承し、台湾史におけるそれぞれの支配統治時代に対しては、一律に荷治、鄭治、日治と、同じ用語を用い、主観的立場を離れ、歴史事実を尊重する立場からの記述を提案する。1945年以降の台湾は、中華民国であるので「民治」の呼称を用いる。この時期は中華「民」国の統治で、政権担当者に政権は交代するものだと知らしめるのである。
歴史は密室で書くものではなく、各国史は世界史と密接につながっている。日華平和条約と当時の国際関係を例にとると、朝鮮戦争(1950-1953)と冷戦を背景に台湾及び澎湖諸島、金門、馬祖の中華民国は日本と条約を締結して、日米など反共勢力と共産勢力との緩衝地帯になった。「こういった世界史と本国史との関係は、高校教科書には見られないのです」と林館長は語る。
国史と世界史との繋がりを重視するために「国史館の年号記載は西暦を主とし、その後ろに当時の支配政権の年号を注記して、外国の読者がわが国の歴史を理解する助けとします。また国史研究あるいは記述を試みる者に、世界史との深いつながりへの注意を喚起する意味合いもあります」と言う。
国史館の創設95年来で最初の女性館長として、林満紅館長は国史の定義を中華民国史と定義付けると共に、もう一つ、政府が日華平和条約発効日の8月5日を国定の祝日に定めるべきだと考えている。こうして台湾が国際法上も日本統治から離れて中華民国に帰属した特別な日を記念し、またこれを機会として国民の国家定義に対する共通認識を醸成していきたいと考えるからである。
日華平和条約について
正式条約名 中華民国と日本国との間の平和条約
締結地 台北(現在の台北賓館)
締結日 1952年4月28日
発効日 1952年8月5日
署名代表 中華民国外相・葉公超
日本全権代表・河田烈
主な内容 第2条:日本国は台湾及び澎湖諸島並びに新南諸島及び南沙諸島に対するすべての権利を放棄。
交換公文第1号:この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある。
重要性 戦後の台湾及び澎湖諸島の主権が中華民国に属することが確定。