疑わず、即行動
チュー氏はこう語る。気候変動は大量の高山針葉樹林を消滅させ、アメリカ西部を含む、多くの肥沃な土地が砂漠と化し、水源や可耕地などの資源の争奪戦が始まる。また、海面上昇によって億単位の人々が移住を余儀なくされる。人類がこのまま傲慢に構えていたのでは、タイタニック号のように沈没の運命は免れられず、政府は早急に行動しなければならない、と。
チュー氏は各国政府に、国の安全保障を強調するよりもエネルギー問題を重視すべきだと呼びかける。エネルギー不安が解決してこそ、安全保障も可能になるのである。
チュー氏によると、地球温暖化の研究が始まった当初は、1950年代の科学者がタバコと肺ガンを直接結びつけたように、その本当の影響と深刻さにはまだ気付いていなかった。だが現在、当初の科学者の予測が一つ一つ実証されており、もはや疑う余地はない。
「第二次産業革命と、地球の資源を維持するための第二次グリーン革命が必要です」化学肥料の出現によって、食糧の大量生産が可能になり、人口急増によって起りうる戦争を回避できたのと同じように、新たな科学技術革命をチュー氏は期待し、現在のエネルギー需給を変えるモデルを見出すために探求精神を発揮するよう、世界の科学者に呼びかける。
また、氏は一般の人々、特に多くのアメリカ人が抱いている三つのミュトスを打破したいと考えている。
打破すべき三つのミュトス
第一のミュトスは、多くの人が「一国の豊かさは、必然的にそのエネルギー使用量と『炭素の足跡』と正比例する」と考えていることだ。しかし実際には、同じように高度に発達したイギリス、フランス、オランダ、日本などの1人当りの年間電力消費量はアメリカのそれよりずっと少なく、エネルギー消費量は国の発展レベルを意味しているとは言えない。
「私たちは常に処理速度のより速いコンピュータを求めますが、実際には多くの人がワープロとしてしか使っていません。また次々と大きな冷蔵庫に買い換えますが、食べる量は変わらないのです」多くの場合、消費したエネルギー量に見合った効果を上げていないのである。
二つ目のミュトスは「エネルギー効率向上と二酸化炭素排出量削減には大きな代償が必要で、自分たちには負担できない」というものだ。
これについてチュー氏は、政府が立法で規範を定めれば、企業は自ずと新たな技術を生み出して対応していくと考える。例えば、冷蔵庫のエネルギー効率は年々向上しており、それがイノベーションを促し、低価格・省エネの製品が次々と開発されてきた。これによって削減されたエネルギー消費量は、全米のすべての再生エネルギーの合計より多い。電子機器やコンピュータにも同様の法的規制を行なえば、驚くべき成果が出るはずである。
白い屋根に反対?
さらに例を挙げる。一般には知られていないが、世界中の家屋の、黒いタールを塗った平らな屋根を白に変え、道路や歩道はコンクリートなどの淡い色のものに変えれば、陽光が反射され、それによって削減できるエアコンの炭素排出量は、世界の10億台の自動車が11年間に排出する炭素量に相当する。
「非常に簡単なことで、特別な費用さえかかりませんが、推進が難しいのです。現在、カリフォルニアの建築家たちは『薄い色の屋根』という規制に反対しています。屋根の色など見えないのに、まったく無知としか言いようがありません」
同じように、家を一軒建てる時に1000ドル余計にかければ、エアコンをつけた室内の空気が外に漏れないようにできる。10万、20万という家の建築費に比べれば1000ドルは取るに足らない金額で、後々の光熱費も安くなるのだが、建設業者は、1000ドル分、中古住宅より競争力が弱くなると言って反対する。
チュー氏が挙げる第三のミュトスは「エネルギー問題解決に必要な技術はすでにあり、あとは『政治的決意』だけだ」というものである。
政治的決意はもちろん必要だが、本当に問題を解決するには新しい技術が不可欠である。
「現在、世界各国の政府は目の前のインフレや景気悪化を重視していますが、環境とエネルギー問題の影響は長期的なものです」と言う。現在でも多くの国が炭素排出量の非常に多い火力発電を採用している。中国では「毎週2基」という驚くべき勢いで火力発電所が建てられており、これらの発電所は50年以上使用されるのだから、そこから排出される温室効果ガスがいかに多いかが想像できる。これは確かに各国が話し合って解決すべき問題だ。
シロアリ体内の微生物
将来の新技術と言うと、ローレンス・バークレー研究所では現在、大型「人工光合成」計画が進められている。その一つは合成生物学の手段を用い、糖分に分解しやすく痩せた土地でも育つ新植物を生み出すというものだ。陽光とわずかな水で育つ植物なので食糧供給には影響しない。だが、現在の最大のネックはコストが高すぎることだ。さらに、このように硬い生物質(木質素と繊維質)をどのようにエネルギーに転換するかも頭の痛い問題である。
チュー氏は「自然に学ぶ」ことが最良の創意の源となると語る。今は「シロアリ体内の微生物」に学んでいる。シロアリの胃の中には百種類以上の微生物がいて、シロアリが飲み込んだ木屑を、複雑な分業を通してエネルギーに変えている。この微生物のメカニズムを解明すれば、遺伝子組み換えによって特殊な微生物を生み出し、同じような働きをさせられるかも知れない。だが、この研究は始まったばかりで、まだまだ長い道のりを歩まなければならない。
「原子」を捕らえる
物理学でノーベル賞を受賞しながら、今は微生物の謎の解明に取り組むなど、チュー氏の研究分野は多岐に渡る。講演の中でも、研究機関は科学者にオリジナリティのある、領域を越えた自由な探求を奨励すべきだと呼びかけた。
物理学の世界に入って40年になるが、最も広く知られているのは、レーザー冷却による原子の「捕捉」という技術の開発だ。6本のレーザー光を用い、絶対零度(零下273℃)に近い状態で、時速4000キロで動く原子を一つの焦点に固定させる。この時、低温のために原子の速度は下がって固定され、その構造を観察できるというものだ。この技術は広範囲での応用が可能で、「原子を捕らえる」という人類の夢をかなえたというので1997年にノーベル物理学賞が贈られた。
チュー氏のチームはさらに、レーザー光による「光ピンセット」を用いた微小物体の操作を研究している。これを使えば、生きた細胞の細胞壁を破らずに内部の物体を操作でき、さらにDNA分子を扱えば、遺伝子の自己修復を観察することも可能になるかも知れない。
チュー氏はアメリカで生まれ育ち、子供の頃から大自然に興味があった。また何事も自分でやってみるのが好きで、隣人の花壇の土壌が酸化しているのか養分が足りないのか分析して小遣いをかせいだりもした。科学探求の中では、何よりも物理が大好きだった。
物理に通じれば全てに通じる
「物理は大自然を理解する最良の方法です」ごくシンプルな現象を物理を通して解釈できるとチュー氏は言う。例えば、手から物が落ちるというのはシンプルな現象だが、数学を用いて物体が落下する重力加速度が計算でき、重力と引力の原理が理解できる。そこから飛行機製造や宇宙探索などへとつながるのである。こうした成果は、400年前のガリレオと後のニュートンの発見から始まった。
「どんなに優れた心理学者でも、人の一時間後や一週間後の行為は予測できませんが、物理学者が単一の出来事から懸命に追跡していけば、宇宙の姿を明確に描き出すことさえできます。それは驚くべき力です」
チュー氏が大学で物理学を学びたいと思った時、普段はうるさいことなど言わない父親が反対した。物理学界には優秀な人が多すぎて頭角を現すのは難しいし、ずっと実験室に篭りきりで、活発な息子には耐えられないだろうと思ったのである。
「父は、私は絵の才能があるので建築学科へ行くべきだと言いました」と言う。だが、とにかく物理が好きだった氏は、ロチェスター大学に入って物理学と数学を学び、さらにカリフォルニア大学バークレー校で物理学博士の学位を取った。
「物理で最も辛くて味気ないのは、数学を用いて計算し、物理的関係を説明するところです」と言う。当時は優秀な人ほど物理や数学の道を目指したが、その道は厳しく、金にもならないので多くの人材がやめていった。「物理軍団は必要ありません。数人の傑出した物理学者がいればいいのです」と言う。
新たな挑戦
研究の方向が変ることについてチュー氏は、物理学の概念と基礎があれば、他の分野の学習も速く、成果が上ると考えている。最も顕著な例は、20世紀中頃以降、ノーベル化学賞や生物学賞、医学賞、さらには経済学賞まで、多くの受賞者が物理学を学んだ背景を持っていることだ。逆に、物理学専攻でない科学者でノーベル物理学賞を受賞した人はいない。
スティーブン・チューの成功は恵まれた家柄のおかげだと見る人が多いが、実際には非常な努力家で、今も週に60時間以上働いている。学習に近道はなく、常に障害を乗り越えていかなければならないと考える氏は、「いかに学ぶか」を自分で訓練して身につけ、成長していくべきだという。
今、研究機関を離れて政治の世界に入ることとなったが、これはチュー氏の人生において最も重大な学習と冒険であるのかも知れない。オバマ次期大統領は、クリーンエネルギーをコアとする「緑の行政」を謳い、しかも環境関連分野で数百万の雇用を創出するとしている。数々の困難の中で、この巨大なプロジェクトを推進し、実現することができれば、その成就にはノーベル賞受賞を越える価値があると言えるだろう。