澎湖の王家は、精緻な糊紙(張り子)と木造の王船工芸を今も伝えている。糊紙は道教の法会と葬儀の習俗に密接に関わるが、王船は王爺信仰に深く結びついている。
王爺は千歳爺、王公あるいは大人とも呼ばれ、中国大陸の福建省南部、台湾の西部沿岸の屏東、高雄、台南、それに離島の澎湖では重要な民間信仰である。澎湖県民政局が2015年に実施した調査では、189か所の廟のうち、41か所で王爺を主神として祀っており、それ以外でも王爺を客神として祀るところがあるという。
王爺送りで疫病退散
王爺の由来となると各地で異なる言い伝えがあるが、疫病神説が一番多い。王爺は玉皇大帝が疫病の管理に遣わした神で、天に代り地を巡行し、疫病を鎮めるという。そこで民はこれを敬うのだが、適切に祀らないと疫病が流行するのではと恐れた。そこで3年毎に行われるのが王爺迎えの祭りで、最も重要かつ盛大に行われるのが、最後の王爺送りの儀式である。
王爺送りでよく行われるのが王船焼きである。これを遊天河と呼び、疫病神を焼いて天庭に送り返すと言われる。もう一つは今では少なくなったが遊地河と呼ばれ、王船を海に流す儀式である。王船が流れ着いた所には疫病もたどり着くので、王船が流れ着いたら、その地に疫病を流行らせないために、近隣の集落は王船と王爺を祀らなければならない。
台湾各地の王船は、遊天河儀式が主流だった。しかし、かつての台湾は貧しく金をかけられないので、張り子の王船を焼いていたが、豊かになるにつれ、三本マストの木造帆船へと変わっていった。だが、紙でも木でも、本物の船の構造をまねて製作されるし、神を敬うため遊天河の木船は航行できなければならなかい。そこで、王船の製作は専門の造船職人が担当していた。
すべて自前の王家の造船
現在65歳の王旭輝は、澎湖王家の王船工芸の三代目である。清朝末期に、王旭輝の祖父王虞は、澎湖天后宮において中国大陸からやってきた僧侶から王船と糊紙(張り子)技術を学んだ。その技術が今では三代目に受け継がれ、糊紙工芸は末っ子の王旭昇が継いだが、王旭輝は造船に打ち込み、15歳の時から父の王宗田について木製の造船技術を学んだ。
王旭輝が製作した王船は、すでに台中の国立自然科学博物館、台北の国立歴史博物館、それに澎湖の生活博物館に所蔵されている。最近の作は、2013年に澎湖の烏崁靖海宮の注文で製作した王船である。
台湾本島各地の王船の様式には大きな差はないが、馬公の王家を代表とする澎湖の王船は、台湾西南の沿海地域の王船と異なっている。
澎湖の王家の船は、造船から装飾の彫刻や絵画、帆や旗の製作まで他人の手を借りず、すべて自前で行う。これに対して、台湾本島では多くの職人が協力し、造船から装飾まで分業する。「項目ごとに比べると、台湾本島の王船にはかないませんが、うちの船は構造がしっかりして伝統を守っています」と王旭輝はいう。
王爺信仰と王船文化は、中国大陸東南部の沿海地域から金門、澎湖を経て台湾に伝わった。その各地の王船の様式を研究するため、王旭輝はかつて福建省南部を調査に訪れたことがある。それによると、船体の構造様式や施工方式など、どこをとっても澎湖の王船は福建省泉州の王船によく似ていて、台湾本島の王船の彩色が鮮やかで華麗なのに比べると、伝統的な王船の色は素朴で地味だという。
古法を重んじ、技術は革新
王船は王爺信仰における最も重要な部分であるために、造船過程においても職人は儀式を守らなければならない。まず造船を始める開斧の儀式では、原木から竜骨を彫り出す前に、斧を打って魔除けの儀式とする。
王旭輝によると、開斧では木に赤い布を巻き、職人は裸足で腰に赤い布を着ける。開斧の儀式は左から右に三回振るが、その時に「第一斧、国と民を安んじ、第二斧、風と雨を調え、第三斧、四時吉兆」とめでたい言葉を唱える。
開斧の後は入神の儀式である。「王爺の船室に穴を開け、五穀、鉄、五金、貨幣などの吉祥の物を封じ、船に神を招くのです」と言う。
開斧、入神は、王船製作に必須の儀式だが、船室の配置や装飾は各地で異なる。中でも、古法を重んじるのが、澎湖王家の王船の特色である。
船と工芸は文化遺産
王家の王船には鼠橋(船首から船尾まで水手が歩く橋)、牛担(船に取付け舵の重量を支える)や鶏胸(船底に置き竜骨を守る)など、十二支を司る設備や装飾を取り付ける。これに対して台湾本島の王船は後になって、ようやく十二支が揃うようになった。
しかし、澎湖王家の木造王船は、王旭輝が継いでから現代のヨット製造の技術を取り入れて改良が加えられた。たとえば、ヒノキとチーク材を合わせて帆柱を作ると、海水に濡れても乾いた後の変形を防ぐことができる。
王旭輝は4人兄弟の中でも造船好きで、その情熱は父の王宗田や祖父の王虞を上回る。30歳を過ぎた頃、木工を学ぶという名目で彰化県埔心郷の造船会社に弟子入りしたが、実際はガラス繊維FRPの技術を盗むためだった。その当時は技術を学び、澎湖で動力漁船を製造するFRP工場を開設することが希望だった。
しかし、天は人の願いを許さずというが、政府の漁船建造制限政策実施により、方向転換せざるを得なくなった。そこで王旭輝は帆船を購入し、澎湖での帆船観光コースを実施することにした。その後、2000年以降は造船やメンテナンスの実務経験を買われて、高雄海洋専科学校(後の国立高雄海洋科技大学)に教師として招かれ、2年前
まで教鞭をとっていた。
長年にわたり高雄で教職についていたが、それでも王船技術を忘れたわけではなかった。現在、台北国立歴史博物館、澎湖生活博物館所蔵の王船や、澎湖の東衛、井垵など向けに制作した王船はすべて高雄時代に製作したものである。
博物館は所蔵と研究向けに王船を購入するが、澎湖の廟から王爺の儀式用に依頼された王船でも、儀式用に焼かれず保存されているのは、各廟の経済事情による。王旭輝の話では、澎湖の半数以上の廟で王爺を招いていて、天庭の規定では任期3年で王船送りの儀式を行わなければならないが、廟の経済事情で送る費用がなく、そのまま留任しているのだという。中には、数十年留まる王船もある。
王爺のための船は信仰が重点
王旭輝は2年前に澎湖に戻り、烏崁靖海宮のために王船を製作した後、20年来心に温めていた願い、台湾最初の媽祖船を澎湖天后宮のために製作したいと考えた。
澎湖の天后宮は台湾でも最も歴史ある廟で、確かな設立年代は詳らかではないが、文献記載によると少なくとも400年余りと言う。天后宮では以前は、3~4年毎に澎湖の漁船を召集して、澎湖諸島をすべて巡視したという。この習俗向けに、媽祖船を製作したいと構想し、王船製作が一段落してから作業を開始した。現在まで半年ほどの作業で、長さ2メートルの模型船が完成し、台湾最初の媽祖船として特許を申請した。
王旭輝によると、完成した模型に基づいて少なくとも20人が乗れる大型船を製造するという。海を渡って、福建省の湄洲媽祖を参拝することも可能な規模である。
王船でも媽祖船でも、王旭輝は独力での製造という王家の伝統を守っている。媽祖船でも、船に乗せる澎湖天后宮の模型は、自身で建物の原図に当り、縮小比率により製作したものである。媽祖様への敬意を表すため、細部まで気を抜かずに作り上げた。
神明のための造船は、手間も時間もかかるし、また毎年造船の注文があるわけではない。王船であれば、短くても3年毎の造船である。そのため好きでなければ造船に身を投じる人はいない。澎湖の王家でも、この技術を継承しているのは王旭輝だけである。幸いなことに、現在小学校5年生の息子が帆船に興味を抱いている。三代継承してきた技術を受け継ぐのは簡単ではないが、王旭輝は息子が将来この技術を継承し、澎湖王家の木造王船の工芸を伝えていけることを願っているのである。
媽祖船は王旭輝の最新の創作である。船内には精確な比率で縮小した澎湖天后宮の木彫の模型が収められている。
王旭輝は古法にのっとり、神明のために実際に海を航行できる船を造る。写真は王旭輝が媽祖船を制作する様子。
王爺信仰において、神送りで行われる王船焼きは王爺迎えの儀式におけるクライマックスである。(王旭輝提供)
2014年に王旭輝が澎湖の烏崁靖海宮に依頼されて制作した王船の進水式。(王旭輝提供)