愛のリレー
見事に転換を果たした聖母病院は2005年から連続4年、台東県在宅サービス優等賞を受賞、2008年にも医療奉仕貢献賞団体賞に輝き、同賞初の団体受賞となった。
「違う角度から見れば、これは『おばかさん賞』です。おばかさんだけが、最も困難な環境を選び、頭のいい人が普通はしないようなことをするのです」と陳世賢さんは笑う。しかし、利益優先の資本主義社会では、このような馬鹿正直さこそが人の心を打つ。だからこそ同病院に寄せられる人的、物的資源は後を絶たない。
例えば5年前、耕莘;病院の糖尿病の権威であった林瑞祥教授は、毎月自費で飛行機で台東に来て1〜3日逗留し、聖母病院で糖尿病患者会の設立と糖尿病教育推進を手伝い、今ではここの専任医師になっている。2008年には国泰病院新生児救急治療室の喩永生・元主任が、癌で亡くなった施少偉院長の後任を引き受けた。翌年初めにも、康泰医療基金会事務局長であった陳良娟さんが20年余りのボランティア参加に終止符を打ち、正式に副院長に就任した。
ほかにも秘話は尽きない。台東で料理自慢の民宿を経営していた順子さんは2006年、陳良娟・副院長からの切なる招きを断りきれず(順子さんの民宿のアットホームなムードが良しとされた)、経営権12年のBOT方式という条件で、聖母病院の敷地内に健康センターを開くことを了承した。
驚くことに、完璧を求める順子さんの手にかかると、設計はますます豊富に、工期もますます長くなり、ついには民宿を売って3000万元を投入、2年後には当初の予定をはるかに上回る、聖堂のように立派な設備ができあがった。しかも「人助けを12年後に伸ばす必要などない」と、建物を病院に返還すると申し出た(病院はなんとか900万元をかき集め、彼の好意に感謝を示した)。今では、県民に低価格で有機野菜料理と健康講座を提供する「聖母健康会館」となっている。
ほかにも、園芸専門家の劉家麒さんは聖母病院の糖分コントロール講座に参加したのがきっかけで、2007年初めに自ら願い出て、4ヵ月かけて聖母病院に東屋や流れのある「癒しの花園」を作った。
おもしろいのは、彼らの中には敬虔な仏教徒やほかの宗教の信仰者もいることで、それでも家族のような思いで病院のために一肌脱いでいる。
「人々の役に立ちたいと願っていれば、そうした人や物事が集まってくるようです」最も「人をいったんつかんだら放さない」タイプの陳副院長はニコニコ笑いながら「こういうのをエネルギー凝縮とか、良性循環と言うのですね」と言った。
これらは、聖母病院が半世紀にわたって得てきた社会的信用の集積であり、社会で人道的な医療が求められている証拠であろう。だからこそ、2009年4月に聖母病院が医療財団法人となるための援助を募った際にも(1600万元余りの土地増価税も払う義務が生じた)、わずか8日で8900万元が集まったのである(目標の3000万元を大きく上回った)。
台東聖母病院の活動の場はすでに台東に限らず、また病院としての役割にもとどまらない。慈愛とヒューマニティのプロジェクトは今後も続く。
聖母病院は、半世紀前に渡台したカトリック「ベツレヘム会」の宣教師たちによって作られた。彼らは台湾東部で最初の社会福祉と医療のネットワークを確立し、積極的に現地の風土や民情に溶け込んでいった。上の数々の神父たちはすでに世を去り、その多くは台東で最期を迎えることを選んだ(台東聖母病院提供)。下は今もベツレヘム会の応接室にかけられている台東県の手書きの地図。
70歳を過ぎても奉仕を喜びとするシスターたちは聖母病院の慈愛の精神のシンボルだ。左から順に、フィリピン人のシスター・セルネオ、アメリカ人のシスター・アイコック、フィリピン人のシスター・エンリケ。
「聖母健康会館」は健康促進の理念を形にし、生命に対する情熱と期待を育てようとしている。
聖母病院は、半世紀前に渡台したカトリック「ベツレヘム会」の宣教師たちによって作られた。彼らは台湾東部で最初の社会福祉と医療のネットワークを確立し、積極的に現地の風土や民情に溶け込んでいった。上の数々の神父たちはすでに世を去り、その多くは台東で最期を迎えることを選んだ(台東聖母病院提供)。下は今もベツレヘム会の応接室にかけられている台東県の手書きの地図。
外来と入院治療の他に、聖母病院では特に「行動サービス」を重視している。「病院へ来られないのなら、私たちが行こう」という精神で、原住民集落を訪ねて食事を届け、高齢者のグループ活動や在宅介護の世話をし、弱者の健康を守っている。
外来と入院治療の他に、聖母病院では特に「行動サービス」を重視している。「病院へ来られないのなら、私たちが行こう」という精神で、原住民集落を訪ねて食事を届け、高齢者のグループ活動や在宅介護の世話をし、弱者の健康を守っている。