Julius Felder修道士
当時、はるか彼方のスイスから、物資も乏しく経済的にも貧しい台湾の東海岸へと渡ってきた聖職者の苦労を想像してみよう。彼らはまるで開拓者のように、布教の傍らさまざまな需要のために土地を購入して建物を建てなければならなかった。そのために、絵画やデザインに長け、建築を専門とするJulius Felder修道士が派遣されてきたのである。
Felder修道士はずいぶん前にスイスで逝去したが、今も多くの人がその人となりを覚えており、交流のあった人々は異口同音にこう語る。「修道士はあまり中国語は話せなかったが、芸術家肌で才能にあふれ、自分の作品には非常に厳しかった。真っ直ぐな性格で、他人が自分の設計に手を加えることは受け入れられず、また工事の質を維持するために人と衝突することも辞さなかった」と。Felder修道士とともに働いた経験がある建築家の簡安祥は「請負業者のコンクリートの配合が彼の要求に合わない時は、そのまま捨ててしまい、やり直させていました」と言う。
Felder修道士は台湾の建築士の資格を持っていなかったため、自ら設計図を描くと、台湾の建築士に依頼して建築許可を申請していた。だが、その優れた設計は教会信者の間でも評判だった。彼は驚くべき創造力を発揮し、台湾にいた41年の間に多数の教会や民家を設計した。その数は台湾東海岸だけで40棟余りになり、それらを訪ねることは、巡礼の道を歩くにも等しい。
ベトレヘム外国宣教会の聖職者たちの墓園がある小馬天主堂は、Felder修道士が台湾で完成させた3つめの作品である。洗練された外観に、現地の素材である大理石の壁面装飾を採り入れ、裏には墓園がある。これはFelder修道士の代表作であるとともに、ベトレヘム外国宣教会を知るには欠かすことのできない重要なスポットだ。
建築学の角度から見たらどうだろう。建築学者の阮慶岳は、Felder修道士の作品は、世界の建築美学とつながる部分と、現地の自主的な美学を持つ部分を兼ね備えていると分析する。地表に貼りつくような形、幾何学的造形の斜め屋根、梁や柱は表に出さないプレート設計などは、当時の世界的な建築美学とつながる部分で、モダニズムの洗礼を受けていたことがわかる。
その一方、Felder修道士は地域の気候や、建設用地の条件を良く考慮し、現地で採れる花崗岩を用いたり、洗い出し仕上げなどの工法を用いた。阮慶岳によると、Felder修道士は、西洋の教会ではよく見られるステンドグラスをしだいに用いなくなった。台湾東岸まで運ぶのに輸送コストが高くつくからだ。その代わりに、現地でよく見られる白と緑の大理石の装飾を採用するようになった。これらは、地域の風土を採り入れたスタイルと言え、設計者の工夫が見られるという。
晩年、Felder修道士は病のためにスイスに帰って静養していたが、後に彼は所蔵していた2548枚の建築設計図を無償で台湾史前文化博物館に寄贈した。その膨大な数の設計図面は、非常によく整理されていた。「これらを見るだけで、Felder修道士がいかに自分の設計を重視していたかが分かります」と台湾史前文化博物館アシスタント研究員の劉世龍は言う。
環境が良く、医療資源も豊富なスイスに暮らしながら、Felder修道士はHilber神父と同様、人生の大半を台湾で過ごしたため、なかなか故郷の暮らしに慣れず、台湾に戻ってきたいと手を尽くしていたそうだ。
毎日午後にお茶の時間を一緒に過ごす聖職者たち。左からJosef Eugster神父、Augustin Buchel修道士、Gottfried Vonwyl神父。