見分け難い二つの島
17世紀にオランダが台湾南部を占領するまで、世界地図に登場する台湾はよく二つ、時には三つの島に描かれていた。彼らは台湾を海上から眺めるだけで上陸することもほぼなかったし、400~500年前の台湾は未開の山林に覆われ、濁水渓や大甲渓なども土砂が堆積した現在の河口よりずっと広かったため、海上から見ると島の間に海峡があるように見えたのかもしれない、と王存立は推測する。
台湾2島の名もたびたび変化し、「小琉球」や「フォルモサ」、或いは2島がそれぞれこの名で記されることもあった。面積から言えば台湾より小さい沖縄は当時は明朝に朝貢していたため「大琉球」の称号が与えられ、化外の地とされた台湾は「小琉球」と呼ばれた。実際に面積の広い方が「小」、小さい方が「大」と呼ばれたせいで、外国の製図師が中国の文献を参考に地図を作る際に混乱を招いた。例えば1570年に作られた、アメリカ議会図書館所蔵のオリテリウス『世界の舞台』「印度東洋島図」には、北回帰線の北側に二つの島からなる小琉球と、群島の中のフォルモサ、そして日本本島の近くの大琉球が描かれる。王存立が史料を調べたところ、この地図のフォルモサはおそらく沖縄で、北回帰線のそばのオレンジ色の2島が台湾だと考えられた。地図の海上には、海の怪物や人魚、難破した船などが描かれており、アジア航海はヨーロッパの船団にとって冒険だったことがわかる。
やっと一つの島に
1624年にオランダ東インド会社が台湾南部を占領して日本や中国との貿易拠点にすると、翌年、オランダは台湾を周航して全島の地図『北港全島図』を作製、こうして台湾の形もぐっと確かになる。オランダ東インド会社による1635年の『東インドと近隣諸島図』では、北回帰線上の台湾はやっと一つの大きな島となり、形もかなり似てきた。「I. Formosa(フォルモサ)」と記され、澎湖諸島や琉球嶼、緑島、亀山島も描かれている。「これは、澎湖以外の四つの島が初めて西洋の大型地図に記されたもの」と王存立は言う。
この地図には、インドや日本、香料諸島などの貿易拠点と、交錯する航路が描かれているが、多くの航路が台湾を通過していることがわかる。もはや台湾も変形したり分かれたりすることもなく、貿易中継点としての地位を獲得している。
オーストロネシア系諸民族の言語や植物、貝殻の工芸品などの研究から、台湾は世界各地の同民族と関係があることがわかる。(林旻萱撮影)