中文を学ぶ苦労
陳千武は手を負傷し、戦後、九死に一生を得て帰還する。だが戻ってみると、公用語が変わっていた。国民政府は「日本文化の毒素を排除するため」日本語による創作を禁じ、日本語書籍を焼却、1953年には国語(北京官話)教育を実施した。生活のため、陳千武は豊原八仙山林場の人事課の仕事に応募する。彼の中文と言えば、戦争の終結でジャカルタから送還される際に2ヵ月間独学した「国父遺嘱」(孫文の残した遺訓)が読めるだけだった。
「日本時代は学校で『教育勅語』、軍隊で『軍人勅諭』を暗記させられました。台湾は中国に返還されたのだから、国父遺嘱が大切になるはずだと覚えたのです」と陳千武は苦笑する。思いがけぬことに山林場の就職試験はまさに「国父遺嘱を書け」というものだった。
「最初の頃は、文書も書けません。幸い、アモイ大学卒業の上司がいい人で、彼の書いたものを写すだけでいいことにしてくれました。そうやって中文を学んだのです」中文上達のため「若きウェルテルの悩み」の中文訳を写しながら、日本語版と照らし合わせて勉強もした。
苦労して学び続けて12年、1958年に陳千武はようやく『公論報』に詩を発表する。中文による創作の第一作だった。1963年には最初の中文詩集『密林詩抄』を出版する。
戦後まもなくは、日本語による作品を掲載する出版物は2誌だけだった。そのうちの一つは、陳千武が林益謙らと作った「明台会」の発行する「明台報」だ。これは1946年にシンガポールの収容所で台湾送還の船を待つ間、収容所にいる台湾人が創作発表したもので、計5期発行された。
政府は日本語を禁じたものの、台湾の原住民は漢民族の方言を解さないため、政令などを伝えることが難しい。そこで政府は1951年の『台湾新生報』には日本語による「軍民導報」欄をつけた(1年足らずのみ)。これが二つ目の日本語刊行物で、陳千武はいずれにも日本語で詩や小説を発表した。
言語環境の急激な変化で、台湾文人の多くが筆を折り、また中文習得の努力を続けた作家たちも、円熟した創作に達するには長い年月を必要とした。
1964年4月、台湾文学はついに再出発の名乗りを上げる。『アジアの孤児』の作者、呉濁流が台北で月刊『台湾文芸』を立ち上げ、続いて同年6月には陳千武、林亨泰、趙天儀、杜国清らが台北の詩人を集め、隔月間『笠』を創刊したのである。
創作発表の場を得た陳千武は、長い年月秘めていた創作エネルギーを爆発させるかのように、現代詩や小説、文学評論、児童文学と幅広く活動した。そして「桓夫」というペンネームを用いた。だが、魂の自由な叫びを表現する文学や芸術には、戒厳令下では常に監視の目が注がれており、筆禍を受けた作家は少なくなかった。
1946年、陳千武はシンガポールの収容所で帰りの船を待つ間、林益謙らと「明台会」を作って「明台報」を発行し、収容所の台湾人に作品発表の場をあたえた。