台湾へ伝える思い
では、黄土水は「甘露水」を通して何を伝えたかったのだろう。
女性の背後の巨大な貝殻は、ルネッサンスのボッティチェッリの名作『ヴィーナスの誕生』を思わせ、この作品が「台湾のヴィーナス」と称されるゆえんだ。また、民間の伝説「貝の精」をイメージさせているという解釈もある。だが羊文漪の解釈は上の二つとは異なり、「甘露水」の深遠な含蓄性を説く。
羊文漪によれば、ボッティチェッリのヴィーナスが恥じらうように体をくねらせているのに対し、「甘露水」の女性は「凛としてこの世界に歩み出そうとしている」と言う。そして「貝の精」については、「もし黄土水がそのつもりなら、観世音菩薩が衆生に注ぐ恵みの『甘露水』を作品名に用いたりはしない」と考える。
また羊文漪は、中世ヨーロッパの芸術によくある「慈悲の聖母」のテーマとの関連性にふれる。シモーネ‧マルティーニによるテンペラ画『慈悲の聖母』は、観音のようにすっくと立つ聖母マリアが両手でマントを広げ、その下に衆生を庇護する構図で、「甘露水」の姿とよく似ている。
彫刻では何かを身に付けさせたり配置したりして、彫られた人物が何者かを表すものだ。同作品の背後にある大きな貝殻や足元のムール貝は、島国台湾に当てはまる。海から目覚めて現れた女神が、天から降る甘露の恵みに浸るかのような表情だ。羊文漪は、神格化された裸の女性は台湾の暗喩で、「甘露水」は台湾が神の庇護のもと、海から立ち上がる様子を表すと読み解く。
100年余り前、台湾初の彫刻科学生だった黄土水は日本で現代美術の舞台に立ち、国際的に通用する形式(素材の大理石と裸体女性に「擬人化」した技法)で大胆に東西を結び付け、ひいては将来の台湾美術への望みを託したと言えよう。
時代を画するこの宣言は、優れた創作技法と強靭な意志によって質の高いものとなり、百年の時を越えて我々に訴えかける。「甘露水」は、この天才芸術家が故郷台湾に寄せた恋文にほかならず、それを鑑賞する我々の耳元に、こんな彼の言葉が聞こえてくるようだ。
「今の臺灣には只一人の日本畫家も、一人の洋畫家も、一人の工藝美術家も無いのである。然し臺灣は天惠に充ちた地上の樂土である。いつか里人の目が覺め、青年の意氣が自由に跳躍する時が來れば、必ずそこには偉大なる藝術家の簇出することを疑はない。私達はそれを期待して、自己の修養に努力すると同時に、勇敢に藝術發酵の爲に、郷黨に向かって大聲叱呼を怠らない覺悟である。藝術上の『ホルモサ』時代を期待するのは、私の徒らな夢ではあるまいと思う」(黄土水「臺灣に生まれ」)
展覧会「光——台湾文化の啓蒙と自覚」で再び人々の目に触れることとなった「甘露水」。同心円にデザインされた会場の中心点に「甘露水」は置かれ、この作品の意義と価値を際立たせている。