ある日、小さな子供が王攀元に「どうして一人もお友達がいないの」と尋ねた。王攀元は家中に溢れる書や画を指差しながら「これがみんなお友達なんだよ」と子供に答えた。王攀元の世界に入ると、ダブルベッドには辛うじて一人が横たわる場所が残されているだけで、そこら中に本や手記が散ばる。あちらの隅には額に入れていない油絵や、丸めた水墨画と書が積まれてある。
「読書、著作、愛情、絵画、この内のどの一つが欠けても生活には何の楽しみも喜びも無くなります」と言う。その手記に書かれた言葉である。1970年に書かれたものだが、この一言が王攀元の90年の生活すべてとも言える。
王攀元は江蘇省北部の村、徐家洪に生れた。王家は地位も財力もある家で、宮殿のような邸宅は数万坪の敷地があった。
王家の長男一家に次男として生れた王攀元だが、3歳の時に父が急逝してから残された母と子供は、権力情勢が変った名家の中で虐げられることになる。「よく夜泣きする子だったと母に言われました。夢を見て叫ぶのです。9歳の時になるともう一種の悟りと言うか、誰かが自分を殺そうとしていると感じました。安心できる場所はなかったのです」と言う。13歳の時に母が亡くなり、王攀元はまったくの孤児となった。
一族は叔父が掌握し、長男の子供が地位を争うのではと恐れて、あらゆる理由をつけて進学を邪魔した。高校を卒業し、王攀元は上海美術専科学校西洋画学科に入学したが、叔父はこの学校に人体デッサンのクラスがあり、よその娘さんのを裸にして絵を描くなんて不道徳極ると、一切の経済的援助を断ってきた。友人や家の使用人が助けてくれたので、王攀元は何とか卒業できたのである。
卒業前の最後の学期、王攀元は裕福な遠縁の親戚に人を介して借金を申し入れた。その親戚は王攀元の皮のコートを担保に取るという。当時、零下数度にまで下がる厳冬の中だったが、やむなくそのコートを脱いで学費に換えた。風雪の中を2日も歩いて学校に戻ったのだが、戻ったとたんにひどい風邪を引いて教室で倒れてしまったのである。病状が重かったので、病院は家族に危篤の電報を出すが何の返事も来ない。困った病院は、死去したと言ううその電報を出すがそれでも音沙汰が無く、病院の中は噂でもちきりになった。
王攀元が重病で頼る人も無い時、見舞にきた国立音楽専科学校の学生季竹君がその話を聞いた。その身の上を悲しみ、病院の費用を一切負担した上に、一歩も離れずに看病してくれたのである。
王攀元は意識もはっきりとしていない中、季竹君が「助けてあげる。ずっと側に居るわ。万が一、助けてあげられなくても、一緒に土の中まで行きましょう」と語りかけてくれたのを、おぼろに覚えていると言う。彼女の細やかな看護があって、王攀元は生き返った。孤独に過した25年間が、急に晴々と広がったのである。二人は潘玉良先生に付従い、フランスに留学しようと約束した。
旅費を工面しようと、故郷に戻って家産を争ったが、結局無駄に終った。間もなく盧溝橋事件が起きて、季竹君の消息が途絶えてしまう。戦乱がやや収まった数年後に、王攀元は幾度も彼女の行方を訪ね歩いたが、二度と会うことはなかった。共に西湖に船を浮べて遊び、東屋で雨の音を聞いた。彼女が好んだ赤い外套、思い起すとこの恋物語は王攀元一生の愛慕と悔いになって残った。
それから数十年、王攀元の手記には常に季竹君の名前が見え隠れする。「男とは自分を高めてくれる何かが必要で、その何かとは尊敬できる女性に恋することなのだ」と書かれる王攀元の手記、そこには孤独な上辺の下に隠される熱い想いがある。
王攀元の絵の世界には、ちらつく雪や雨の雫のようなタッチで、蒼茫と深まる世界が層をなすように織り成されて行く。画面の隅には走る犬、ひざまずいて祈る人、忘れられた古い城、それとも低く飛ぶ鳥などが見える。芸術評論家の謝里法氏は「タッチが密からまばらへ、まばらから密にと移り、そこに一種の動きが生れて、画面は単純から複雑に、複雑から単純に変る」と評する。繊細で敏感な色彩の変化が奥行ある味わいを生出していて、印刷では恐らく表現できないものがある。実物を見ないと、王攀元の世界は分らない。
国立師範大学美術学科研究所の王哲雄教授は王攀元の絵の世界について「構成はきわめて現代的で、具象画ではあるが抽象的な思考に裏付けられている。画面は明確な線が無く単純だが、豊かな技法が使われている」と評価する。その絵が表現するのはこの世の無常の孤独だが、孤独の中に様々な感情の嵐が隠されていて、見るものを打つ。
王攀元の画風は一生変っていない。上海美術専科学校の時にすでに時代を超えた画風を確立していたのである。これを努力していないとか、鼻で笑ったり、何を描いているか分らないと言う人もいて、赤い太陽が描いてあるから親共だとまで言われた。「天才画家というのは発展を生み出すもので、発展に従うものではない」と、王攀元は若い画家に戒める。
自分の創作については、昔から太陽だろうが、小鳥だろうがどれほど多くの人が描いて来たか分らないが、それぞれ異なるのはつまり「絵画というのは創作者の魂の反応で、心の表現を離れると物まねになる。ほかの人とは違う辛い人生を絵画を用いて表現し、内心の苦悩を告白しているだけなのです」ということになる。
画面に現れる犬は子供の時の唯一の遊び相手、赤い服を着た女は季竹君である。沈鬱で苦渋に満ちた一枚一枚が、それぞれ心に刻み込まれた記憶につながり、文人が頭の中で描く憂愁とは違うのである。
「憐れむべし、その中の人」と、大きく激動する時代を生きてきて、王攀元は人間の存在の小ささ、儚さを痛感した。この生の中に存在する憂愁と悲劇、何処から来るか理由の無い悲しみを、詩情をこめて絵に表現してきたのである。
戦乱の時代、故郷に戻った王攀元はある日、一族のものに陥れられて日本軍に連れて行かれる。皇軍のために働かないと処刑すると言われた。ところが夜中に、名も知らぬ男が助けに来たと言う。あれこれ考えるに、故郷では様々なしがらみがあり、財産のこともあって一族の中からまた命を狙われることになりかねないと、純真な小作の娘の倪月清一人を連れて、南方に逃れることにした。対日抗戦が終ると、今度は国共内戦が起り、国民党軍に従って退却を続けて行くうちに、王攀元は戦火の中で倪月清と結婚した。その後、従弟と共に船に乗って台湾にやってきた。
台湾の高雄についてから、一家は稲藁の山に穴を掘って眠った。埠頭の臨時雇いの荷運び人夫として3年間、王攀元は食べるために必死に働いた。数日間仕事にありつけないときは、家で待つ子供のことを考えるのが恐かったし、妻がまた部隊に残り物を貰いに行かなければならないのかと考えるのはさらに辛かった。
1952年、従弟の口利きで王攀元は宜蘭県の羅東中学校で教員となったが、月給300元は一家6人を養うには足りなかった。一家は人の住まなくなった小屋に落着いたが、藁屋根が台風で飛ばされ、窓のないぼろ屋に移った。ところが雨漏りがする。宜蘭は雨の多いところで、子供たちは傘の下で寝た。
羅東中学で王攀元の生徒だった画家の黄玉成氏は、王先生は授業では余りしゃべらず、デッサンや水彩を黒板にかけては、生徒に自由に描かせていたと言う。育ち盛りの子供のため、自分はお腹が空いても昼食を取らず、そのため夫婦二人とも胃を悪くした。40歳を過ぎた頃の王攀元は、生活は苦しくとも手記に「お前は画家である。環境がどう変ろうとやはり画家である」と書いている。
イーゼルもテーブルもなく、夜中にランプを灯して木箱の上で小さな絵を描き、床に大きな絵を描いた。長年の習慣から、今でも王攀元はどこででも絵を描く。キャンバスを床に置き、椅子の背や壁に掛けては描き、腰を曲げて描きつづけたので背中が曲った。そして「イーゼルのない大画家」の異名を貰ったのである。
1964年、画家の李徳、劉其偉、胡笳の諸氏が宜蘭で展覧会を開いて、王攀元と知合った。中でも李徳氏は彼を高く評価し、その勧めがあって1966年に王攀元は台北で32枚の水彩画の個展を開いた。それがちょうど台湾でロケをしていた「砲艦サンパブロ」の撮影スタッフに気に入られて、全部売れてしまったのである。喜んだものの、その一方では「どうして自分の作品を少しは残しておかなかったのか」と深く後悔した。この後悔は戦乱を経験した不安から来るのだろうが、その後の王攀元の絵の出し惜しみ癖につながる。
画壇ではその絵の出し惜しみは有名である。自分の絵をそれぞれの部屋に隠して鍵をかけ、気に入った絵は展覧会に絶対出さないし、妻や子供にも見せない。展覧会に出す作品でも、半分以上は非売品である。さらには、芸術家の友人たちに再三、金のために魂を売ってはならない、売るための絵に堕してはならないと言うのである。友人たちはその志に賛成はするものの、まだ貧乏に懲りないのかと頭を振って笑う。
1987年、王攀元は再び台北の皇冠文化センターで個展を開いた。その時にあるコレクターが絵を数枚買いたいと言いだしたのだが、その中に非売品の「無奈(やるせない)」が入っていた。コレクターはこの絵が買えないのなら、他の絵も全部買わないと強く言う。当時、借金だらけの王攀元はそれでも「売らないと言ったら、貧乏で死んでも売らない」と断った。その後、王攀元の口からその絵の由来が分った。ある外国から帰ってきたモデルが王攀元の絵を絶賛し、最初に会ったときに気が合ったのか話が弾んだ。すると、彼女はあっさりと服を脱いでヌードのモデルになってくれたのだという。自分の才能を愛してくれた友人の義理から言っても、売れるわけはないというのである。実は、このモデルで同じような絵を2枚描いたのだが、王攀元はどちらも手放さない。「ご老人は本当に頑固で、愛すべきほど、尊敬すべきほどに頑固です」と形而上画廊の黄慈美さんは言う。
70歳を過ぎる頃が王攀元の生活の転期となり、雄獅画廊での水墨画の個展、皇冠文化センターでの個展、国立歴史博物館での大規模な個展、そして台湾省立美術館のオープン展への出展と続いた。人生も80年に近くなった、名利を好まず、わざと金や名誉から離れようとする宜蘭の老画家は、どれほど山の後ろに隠れようとも、人を引きつけてしまう芸術の光を放っているようである。
一生を孤独に過し、マスコミの取材だろうと有名人の訪問であろうと、王攀元はその芸術家の頑固を改めようとはしない。気に入らない人がやってくると、相変らず相手にしないのである。黄慈美さんは、最初に王家を訪ねて行った時のことを覚えている。王攀元は絵を描きつづけ、一言も余計なことは言わない。黄慈美さんが絵を眺めては話しかけるので、画家は婉曲に出て行ってくれと言った。ところがまだ若かった黄慈美さんにはその意図が伝わらない。その度に彼女は大人しく部屋の中で待ち続けるだけである。結局ここから、その後の画家と画商の関係が始たのだと言う。王攀元は笑いながら、気に入らないことがあっても耳が聞いてませんからねと言う。しかも王攀元は生れ故郷の徐州訛がきつくて、宜蘭へ行く道路の九十九折のように、慣れない人には厄介である。これが名声を慕ってやってくる人を退散させる壁にもなっている。
遅まきながらやってきた名声だが、王攀元は全く気にかけない。もっと山奥に隠居しようかと思うだけである。生前の名声は当てにならず、死後の評価が真の評価だと思うからである。泳ぐ魚を描いた新作を指差しながら「魚の位置が隅に退くほど、海の空間は広がります」と言う。
絵を出し惜しみする彼だが、ある時10数枚を寄付した。宜蘭文化センターが100万元の予算を組んで、王攀元の作品を所蔵しようとしたときのことである。王攀元は売らないと言った。文化センターの担当者が油絵を売ってもらえないなら水彩画でもと言うと、彼は「売らないが寄付する」と、1000万は下らないと思われる10数枚を、文化センターがその予算を若手画家の育成に使うという条件付で寄付したのである。文化センターが寄付についての記者会見を開きたいと言ってきても、王攀元は手を振って記者会見するなら寄付もしないと言い張った。名声のために寄付したと思われるのが嫌だと言うのである。自分の潔白さを守ろうと、一生を決して譲らなかった。「一番尊敬するのは裏表のない誠実な文人気質です」と、その若い友人李奎忠さんは言う。
90歳になった。体力が衰えてきても相変らず100号の大作を描き続ける。友人の中には、もう年なのだからマージャンなど楽しみながらのんびりしたらどうなんだと言う人もいる。これに対して王攀元は胸の内の不満を抑えきれないかのように「なんてことを。マージャンでもしていろなんて。この年になったからこそ時間が惜しいのに」と、王攀元は年をとればそれだけいいものを創作しなければと思うのである。
最近、宜蘭の文化界では王攀元を亀山島と同じく土地のシンボルと見なして、何かあれば引っ張り出そうとする。イベントに出席してもらえれば、それが無上の栄誉と思うようになった。一方これまでは表に出るのを嫌った王攀元だが、若い人を激励しようと、ここ数年は外に出ることが多くなった。「それでも私が一番尊敬する点は、今日これほどの名声があるのに、宜蘭に自分の勢力や閥を作ろうとは決してしないところです」と李奎忠さんは言う。
年をとったのか角が取れました、と老妻の月清さんは話す。一生苦労してきた王攀元だが、晩年はやっと穏かに落着いてきた。ここ数年、その作品は明るい色が多くなり、時に画面を横切る孤帆にもう一つの帆が寄添うようになった。やっと訪れた幸福感が画面の孤独と苦渋を薄める。
一生の波風を生き生きと話しつづけてくれた王攀元は、別れの時となると軽いため息をつきながら「今日は楽しく話ができましたが、今度はいつ会えることか」と言う。苦難と漂泊の一生を送り、縁あってめぐり会った人との別れにはとくに心が動くらしい。その嘆きが、またあの激しい時代に出会った人の人生の厳しさを思い起させるのであった。
蒼茫たる天と地との間を小さな人影が歩いていく「遥かなる路」。幼くして両親を失った王攀元は生の孤独を十分に味わってきた。水彩画39×26.5cm 1962
ベッドの下に何十冊ものノートが積んである。歳月が流れても、王攀元は若い頃のロマンスを忘れず、何度もかみしめている。(卜華志撮影)
蘭陽平野に隠棲して半世紀近くなる王攀元の目と心には「亀山島」が焼き付いている。油絵90×90cm 1962
王攀元とともに草葺きの家に住み、飢えを忍び、余所から食べ物をもらってまでして暮してきた妻の倪月清さんだが、一度も不満など言ったことはない。(卜華志撮影)
ある女性が王攀元に初めて会って、その作品に感動し、その場で衣服を脱いでモデルになった。「やるせない」水彩画82×86cm 1962
王攀元の作品にはしばしば遥か遠く暖かい太陽が描かれてている。人の情への渇望を表しているのだ。「旧友を思う」油絵91×91cm 1988
具象的でもあり抽象的でもあるシンプルな作品に、深く沈んだ生の哲学が込められている。これが王攀元独特の画風だ。「落日」 油絵 77×77cm 1953