軽快な歌声が響く。子供たちは先生のもとへ集まってくると、自然に手をつなぎ、合唱を始める。挨拶の歌、万物への感謝の歌など、いずれもアミ語の歌だ。ここは花蓮県豊浜郷の港口集落にあるタモラク(Tamorak)共学園である。
タモラクへ来ると、言語が瞬時に切り替わる。主要言語はアミ語で、なるべく漢語は放さないようにと言われる。
共学園の生徒は3歳から11歳まで、幼稚園と小学校がある。ここでは母語は生活の一部だ。幼稚園の先生は、母語を使って子供たちに毛布作りや水彩画を教え、先生が創作した歌を歌いながら草取りや種まきをする。
子供が無意識に漢語で質問すると、先生はアミ語で答える。食事も遊びも、喧嘩もアミ語で、一日中アミ語の中で過ごす。「幼稚園の場合、早ければ2ヶ月、遅くても4ヶ月で聞いて話せるようになります」と学校創設者の林淑照は言う。
お母さんこそ最良の先生
台湾初の全アミ語学校を創設した林淑照は実は漢人で、ドキュメンタリーフィルムの制作者でもある。1998年に友人に招かれて港口集落を訪れ、90歳の頭目のドキュメンタリーを製作した。アミ語を一言も聞き取れない彼女は友人を介していろいろ質問しながら、頭目と一緒に海や山へと歩いた。彼女は注音符号で頭目の話を記録し、分からないところは友人に教えてもらった。彼女にとって頭目は最初のアミ語の先生だった。
頭目の暮らしから集落の文化の奥深さを感じた彼女は、この土地の物語をもっと知りたいと思うようになり、ここに残って「ナカウ」というアミ語の名前ももらった。それから20年、アミの男性と結婚し、集落の母親となった。
娘が生まれると、彼女は意識的にアミ語で話すようにした。自身もアミ語は上手ではないのだが、色や動物の名前など、簡単な単語から教えていった。もともと彼女とは漢語で話していた夫やその両親も、その姿に感動し、一緒に母語の環境を作っていった。
だが一人の努力では足りない。彼女が教員をしていた港口小学校の生徒の大部分は原住民族の子供だった。だが漢文化が主流の学校教育で、母語教育はごくわずかな時間しか行われず、集落の子供たちは次第に民族の文化にアイデンティティを持たなくなり、中には劣等感さえ持つ子供もいた。「子供たちは自身を知らないのに、どうやって自分を愛し、世界を愛することができるだろう」とナカウは心を痛めた。
海辺のタモラク共学園
ナカウの疑問と無力感に答えを出したのは、シュタイナー教育(ヴァルドルフ教育)だった。授業に教科書は使わず「ここの生活文化を教えるのです」と言う。彼女は宜蘭の慈心ヴァルドルフ実験学校に学びに行き、それから自分の3人の子供に自宅で学ばせることで、少しずつ集落の他の親たちに影響を及ぼしていった。そして数人の母親とともに全てアミ語を使って世界を知るというタモラク共学園の雛形が生まれたのである。
生活を題材とした学習では、集落の年配者が先生となる。現地の植物を採り、ナイフで竹を切って縄で縛れば箒ができる。農耕の授業では、環境にやさしい農業をしている農家にヘチマ栽培をアミ語で教えてもらう。ヒキガエルが出てくれば、アマガエルとの違いを教え、ヒキガエルがいれば蛇が出没することも教える。
海に近い港口集落では、住民は潮間帯で食べ物を採る。タモラクででも海辺での授業を行ない、夕暮れ時に教室の外で調理する。子供たちが見聞きし、味わうものは、すべて地元文化の精髄なのである。こうして自身の文化へのアイデンティティが生まれ、世界と向き合う力になる。
秀姑巒渓流が育む河辺教室
同じく全てアミ語で教える共学園として、秀姑巒渓沿いのピナナマン(Pinanaman)河辺教室も訪ねてみた。
この日は散歩の授業中で、先生と親と子供たちが岸辺の藪の前に立ち、粟酒を捧げて川の霊と祖霊に挨拶をしていた。続いて草を刈りながら道を開きつつ川をさかのぼっていく。大人も子供も川床に立ち、手をつないでアミ語の歌を歌う。これに加わりたくない子供は泥遊びをしているし、水に入りたくない子がいれば無理はさせない。ピナナマンでは子供一人ひとりの状態を尊重する。
アミの伝統では、7歳前の子供は霊体で、宇宙とつながっており、周囲のものごとに惹かれやすいとされている。
ピナナマンの授業は楽しい。子供たちは歌い踊り、作物を育て、お菓子を作る。遊びながら、濡れた石で足を滑らせない方法を身体で学んでいく。一年を通していつも川辺に行き、季節によって変わる動植物に触れる。
先生に連れられて川辺で野草を採ると、集落の母親たちが火をおこして調理し、まもなく野草のスープが出来上がる。近くで摘んできた花を飾り、採れたてのおいしい料理を食べれば、生活の美を体得できる。子供たちから馬躍校長と呼ばれるマヤウ・ビホは、よく「母語を週に何時間、どうやって教えるのか」と聞かれるが「母語の授業などありません。母語ですべてのものを学ぶのです」と答えるそうだ。
マヤウ・ビホによると、従来の母語教育では、童謡を各民族の言語に翻訳して教えているが、それは中国語による思考をもとにした歌なので、彼らの生活とは切り離されたものなのである。これに対して、生活の中から母語を学び、歌いながら語彙を習得していけば、自分が感じた季節の変化などを盛り込んで、替え歌もできる。
一緒に子供たちの未来を考える
台湾各地の学校で講演をしているマヤウ・ビホは、子供たちに民族の名前について語り、集落の地図を描いて見せる。原住民族の子供たちは、名前が違うことから笑われたりして、心に傷を負って成長する。だからこそ、自身の民族をよく知ることによってのみ自信を持てるのである。マヤウは講演の中で、子供たちに自分は誰なのか考えさせる。学校を開いたのは、長年にわたって原住民運動に奔走してきた彼の活動の一つなのである。
タモラクの影響を受け、2年前にマヤウ・ビホは若者を集め、教育や集落の将来について考えてもらった。20年後の集落はどうなっていてほしいか、10年後の自分はどうなりたいか、自分の子供の10年後はどうなってほしいのか、という三つを問いかけ、将来の青写真を描いていった。
こうして討論を重ねてピナナマン河岸教室のイメージが出来上がっていった。子供には水の特性を知ってほしいと思う人もいれば、植物を50種類は見分けられるようになってほしいという人もいた。子供たちの教材は先生や親が話し合って作り、先生は各種技能を学び、子供たちの将来についてイメージを広げる。学校開設から現在まで、募金は容易ではないが、ピナナマンは学費を取らない方針を堅持している。親たちは交代で子供たちの食事を用意することとし、代わりに金銭を払うことはできない。「親が料理を届ける時に、子供たちに会い、先生との関係を深めてほしいのです」とマヤウ・ビホは言う。
ピナナマンの親たちは忙しい。交代で授業にも協力し、2週間に一度は父母会も開き、毎月交代で集落版のTEDも開く。ある人は、子供と一緒にいじめを乗り越えた経験を語り、多くの人が励まされた。
自信をもって世界と向き合う
ピナナマン河辺教室に共鳴するのは原住民家庭ばかりではない。台東から来た漢人の子供も仲間に加わっている。この児童の親は、十数年にわたって実験教育に従事し、子供が自由に成長できる幼稚園を探してピナナマンを選んだのだと言う。「原住民族は大自然との関係が非常に緊密で、子供は真に大地とつながることができると思ったのです」と両親は語る。
集落の年配者が亡くなると、ピナナマンの子供たちは出かけていって慰めの歌を歌い、毎日通りの掃除をして地域と良好な関係を保っている。同級生が何日か休んだら自分たちで作ったビスケットをもってお見舞いに行くなど、生活の細部にピナナマンが大切にするアミ族の「互助、ケア、シェア」の精神が活かされている。
台湾では時代によって、日本人や中国人、台湾人になるための教育を受けてきたが、マヤウ・ビホは「自分は自分自身なのです。ところが教育は別の人になれと教えるのです」と言う。彼がイメージする将来は、原住民の子供たちが皆、自分は誰なのか、自分の民族はどこから来て、どこへ行くのか、答えられるというものだ。
教育の影響は深く、長いあいだ続いていくものだから、全アミ語共学園の子供たちがどのように育っていくのかは誰にもわからない。ただ、ナカウは、明るい人になると考えている。彼女の長女アトモは5年生の時からアミ語の自主学習を開始し、あちこちを巡って他の集落の技術や工芸を学んできた。今年高校を卒業する彼女は、すでに友人と一緒に同世代のアイデンティティ研修を開催し、さまざまなエスニックの参加を歓迎している。良い社会は互いを受け入れるものだからだ。「互いに相手を理解し、将来一緒に何ができるかを話し合えば、これからの世の中はもっと良くなるはずです」とアトモは目を輝かせた。
ナカウ(右から2人目)さんは3人の娘たちにすべてアミ語で自主学習をさせ、集落に従来とは異なる教育のイメージをもたらした。
早朝、タモラク共学園の子供たちは母語で歌を歌ってゲームをし、笑い声の中で一日の学習を始める。
母語は生活そのものだ。タモラクの子供たちはアミ語で畑仕事を記録する。
植物を見分けて箒を作る。子供たちは生活の中から集落の知恵を学んでいく。
校長と呼ばれるマヤウ・ビホさんが、教員を助けて子供たちを川岸へ連れていく。学校を開いたのは原住民のアイデンティティのための努力のひとつだ。
ピナナマン河辺教室のパナイ先生は、子供たちと一緒に川岸で野草を摘み、植物の種類を教える。
近くで摘んできた植物を飾れば、子供たちの昼食も生活の美の体現となる。
ピナナマンでは子供たちに母語を使って生活させる。自身のエスニック文化を知ることで、自信をもって将来へと歩んでいくためだ。