報告しなければ盗掘
黄加進はマスコミに、1987年から1995年にかけて別に4隻の沈没船を発見し、数艘は船体に古い大砲を見たと語っている。1990年から黄加進に潜水を習いだした李明儒によると、骨董好きの黄加進は最初はイセエビ漁のために潜っていたが、その後は文物探しに潜るようになったという。時に60メートルと、漁撈やスポーツ潜水の30メートルをはるかに超え、将軍一号引上げにも50メートル超えて潜った。
李明儒によると、大の骨董好きでそれを他人と分かち合いたい黄加進は、自宅の前庭を展示場に開放し、自分が発見した染付磁片や陶器を展示していた。さらに1993年には澎湖県警察局より会場を借りて沈没船文物展を開催し、澎湖の人々の目を楽しませた。
こういった黄加進の派手なやり方が教育部の不興を買い、1995年には当時の文物資産法第17条「水没した所有者のいない古物は国家の所有に帰す」の規定を引いて、国有古物の横領の罪で黄加進を澎湖地方裁判所に告訴した。最終的には陶器の壷や磁片など783点の文物すべてが、澎湖県文化局に寄贈された。
その一方、それまで台湾には沈没船発見の前例がなかったため、教育部では緊急に黄加進を想定した「所有者のいない古物発見者の奨励規定」を制定したものの、それこそ全国最初のことで、しかも周辺法規が整っていないため、誰もが混乱したと、この業務を担当した澎湖文化局の紀麗美副局長は当時を回想する。
管轄官庁である教育部の硬軟使い分けたやり方に、黄加進に親しい友人たちは不平を鳴らす。「裁判沙汰になると知っていたら、隠し持っていればよかったのです。それがこんなことになって」と紀副局長は言う。
「その頃は文化資産が今のように重視されず、所有者のない古物を発見したら、法的にどう処理するかも知られていませんでした。普通は家の装飾品として飾っていたのです。実際、引上げた文物の意義や価値も分かっていませんでした」と紀副局長は、文化遺産に対する当時の一般の認識不足を語る。
さらに皮肉なことに、教育部は黄加進が明清の古物を隠し持ったと告訴しながら、1998年9月に歴史博物館が沈没船を発見し、将軍一号と命名した後、発見された文物の多くが欠片、よく見られる様式、歴史資料としての意義不足などとされ、教育部に申請して認められた奨励金は僅か1万台湾元に過ぎなかったのである。黄加進は澎湖県の感謝状は受け取ったが、自分と文物への侮辱として奨励金の受領は拒否した。
この四つのオリーブの種は、将軍一号から出土した奇妙な「文物」である。鑑定の結果、中国大陸の華南で広く栽培され、砂糖漬けにして食べられているものとわかった。これらが船とともに沈んだのか、それとも現代の観光客が酔い止めに食べて種を海に捨てたのかは分からない。