音楽が縁での出会い
Relixの結成は2006年、それぞれ台湾に来てから、趣味の合う者が集まってバンドを結成した。2009年に労働契約が終了して帰国したメンバーもおり、メンバーは顔ぶれが2回変わっている。バンド名の由来を問うと、メンバーの一人ハリスは、「Relixは、Relicという語の最後のcをxに変えたのです。このほうがカッコいいと思って」Relicには遺跡や記念物、家に伝わる宝といった意味があるが、古い文物には、文化的な魂や時間がつまっている。Relixという名にこめたのは、音楽に対する自分たちの情熱を伝え、文化の魂やパワーを保ち続けたいという思いだ。
ボーカルのハリスは、結成時にはキーボードを務めていた。音楽家の多い家に育ち、幼い頃からピアノを習って、15歳で音楽の創作を始めた。バンドのオリジナル曲のほとんどはハリスが作ったものだ。
ドディは、メンバー中、最年長で、韓国でも2年間働いたことがある。髪を長く伸ばした彼は、中国語はまだうまく話せないが、ドラムの凄腕は独学で磨き上げた。彼の妻アティクは、バンドのマネージャーを務め、演奏依頼などを受けて手配する。
最も若いメンバーであるヴィッキーは、ハリス、ドディと同じく結成時からのメンバーだ。ギターの名手であるヴィッキーの家族も音楽を愛し、音楽関係の仕事をしている。お金を稼ぐために台湾に来て、幸運にも音楽好きの仲間に出会い、音楽の夢を見続けることができている。
ヘンキーは元はベースだったが、音楽的才能に恵まれて各種楽器に精通するので、キーボードを引き受けた。だが契約期間が終わって帰国してしまった。新しくキーボードを務めるのはアンジーで、ハリスの兄弟だ。バンドのキーボードが欠けたため、先に台湾に来ていたハリスが、家から兄弟を呼び寄せたというわけだ。
それでもバンドメンバーは現在も1人欠けた状態だ。ベースのティアンが契約満期でいったんインドネシアに帰国、台湾への再入国申請にしばらくかかるためだ。マネージャーのアティクは、バンドに欠員が出た時は、友達にピンチヒッターを頼むしかないと言う。外国人労働者の在留期間は延長されたとはいえ、メンバーの交代はバンドが常に直面する問題だ。
仕事のほかは音楽の毎日
労働者として彼らは、台湾で1日平均10~12時間、週に6日働き、日曜日も不定期に残業が入る。月給は約2万元、限られた余暇はほとんど音楽で埋められる。
ボーカルのハリスは、自分のフェイスブック個人ページで、自分が演奏して歌う動画を多く公開している。キーボードを演奏しながらスローなテンポの曲を歌うこともあれば、仲間とギターをかき鳴らし、シャウトするものもある。すでに50曲以上書き溜めている彼は、アレンジも完成した10数曲のデモテープを作ってメンバーに聞いてもらい、それを練習時に皆で話し合いながら、演奏方法を決めていく。
メンバーの支出は少なくない。小さな練習部屋でもレンタル料は1時間350元する。彼らの音楽をより多くファンに楽しんでもらおうと、彼らは自分たちでお金を出し合ってCDとDVDのアルバム『WAKTU』を制作したが、録音スタジオのレンタル料は最低でも1時間1500元する。ステージ衣装はマネージャーのアティクが考えて都合をつけるが、ファンサイトのメンバーのために、自分たちのTシャツも作って配布する。しかも、少しでも良い楽器を買うためのお金も必要だ。
まだ20歳代の彼らは、働いて家計を助けながら、なんとかお金を工面して、台湾で音楽の夢へと歩み続けている。
自分の歌を
Relixの歌はほとんどが自分たちの創作だ。恋愛をテーマにしたものが主で、若い男性の恋心を歌う。例えば「Pergi Untuk Kembali(僕の帰りを待って)」は、旅立ちを間近に控えた男性が恋人と離れたくない思いを訴え、必ず帰ってくると約束する歌だ。「Hanya Kamu(唯一の君)」では、ふさぎ込んでいる恋人の様子に、彼氏の方は何を怒らせたかと気をもみ、自分は浮気していないと訴えるなど、若いカップルの様子を生き生きと描く。「Selalu Merindumu(いつも君が恋しい)」は、スローテンポなラブソングで、片思い中の人物が、相手も自分を思ってくれないかと深夜に思いを馳せる歌だ。
バンドの曲風は、ポップス、ロック、ダンドゥット(インドネシアのポップス)、ブルースなど多岐にわたる。ダンドゥットは、アラブやインド、マレーシアなどの音楽が融合したもので、1970年代に労働者階級のムスリムの若者の間で流行し、1990年代末にはインドネシア社会全体に広まった。現在のダンドゥットは、ラテン、ハウス、ヒップホップ、R&B、レゲエなどの要素も取り込んでいる。Relixのヒット曲「Cemberut(深刻げな女の子)」は、ダンドゥットのスタイルだ。ベースを主体にした軽快なテンポで、愛する彼女が深刻な顔をしているのを心配し、笑わせようと苦心するさまを描く。軽快なリズムに思わず体が動いてしまうような曲だ。
Relixはテレビの「唱四方」にも出演したことがある。「唱四方」は、台湾外国人労働者発展協会、「辣四喜」映像スタジオ、新聞「四方報」が共同で制作する歌番組で、街頭に繰り出し、外国人労働者に歌ってもらう。Relixが同番組で歌ったのは、自作の「Aku Cinta Indonesia(アイ・ラブ・インドネシア)」で、歌詞には「サバンからメラウケまで(サバンはインドネシア最北西の町、メラウケは最東にある町で、サバンからメラウケまでとはインドネシア全域を指す言葉)、赤道と平行に広がる、肥沃な土地と多様な文化を持つ国が、私の故郷インドネシア…」とある。遠く異国から故郷を思うこの歌は、インドネシアの祝日の集まりなどで歌われ、労働者たちがともに耳を傾け、歌って故郷に思いを馳せる。
台湾の音楽は聞くかという問いにハリスは、周杰倫(ジェイ・チョウ)のスローな曲が好きだし、五月天(メイデイ)の「離開地球表面(地球の表面を離れて)」もよく口ずさむと言って、慣れない中国語で歌い始めた。ベースのティアンは職場の台湾人と、張震嶽の「自由」を舞台で歌ったことがあると言う。
決して夢をあきらめず
Relixはよく新曲をネットにアップするし、マネージャーのアティクも、練習風景の動画をフェイスブックのファンページで共有している。イベントでの演奏の動画では、ファンが舞台の下に押し寄せ、演奏に合わせて両手を振っている。国の言葉が観客の心に響き、音楽が故郷を遠く離れた人々の心を慰めるのだろう。
どの国の言葉でも、或いは故郷にいても他郷にいても、そして、どんなスタイルであっても、音楽に国境はない。ハリスは「音楽はすでに僕にとって、分かち難い人生の一部分です」と言う。バンドのメンバーにとって、音楽はいつも生活の重心だ。将来インドネシアに帰国して、出稼ぎの必要もなくなれば、インドネシアで引き続き、音楽によって人々に楽しさや慰めを与えたいと願っている。
練習室でのレンタル時間が終わると、外ではすでに次のバンドが待っていた。双方それぞれが握手して挨拶を交わしてみると、相手もインドネシア出身だとわかった。結成まもないバンドで、バンド名もまだ決まってないという。この練習室の小さなスペースには、外国人労働者のまた別の顔が存在し、彼らはそこで夢を追い続けている。ハリスの言葉通り、「Never give up, fix mistakes, and keep stepping(決してあきらめず、過ちを正し、前進を続ける)」のである。
ファンとの触れ合いを増やすため、Relixは自費でCDとDVDを出した。写真はアルバム『WAKTU』のジャケット。
ファンとの触れ合いを増やすため、Relixは自費でCDとDVDを出した。写真はアルバム『WAKTU』のジャケット。
Relixのメンバーは、移住労働者として働きながらバンドを結成して台湾で音楽の夢をかなえた。これはアルバム宣伝用の写真。
ボーカルのハリスは音楽一家に生まれ、15歳の時から楽曲創作を始めた。Relixのオリジナル曲の多くは彼の作品である。(林格立撮影)
スタジオでメンバーたちは新曲の練習に取り組む。左のヴィッキー、中央後のドディ、中央手前のハリスは結成時からのメンバー、右のアンジーは新たに加わったキーボードである。(林格立撮影)
Relixはしばしばフェスティバルなどのステージに招かれており、インドネシアから働きに来た人々の間で非常に人気がある。