誰も見に来ないカーニバル
このドリーム‧カーニバルは年々盛大なものとなり、特に昨(2020)年は大盛況だった。しかし、20年前の第1回を振り返ると、それは悲惨ととしか言えない状況だった。
当時、蔡聡明は自身が建設‧販売する集合住宅「ドリーム‧コミュニティ」の住人数人とともに酒を飲んで気を大きくし、それでも建物を出る時は仮面で顔を隠していた。押していた台車のタイヤが途中でパンクしてしまい、参加していた住民は「みっともない!」と大声で嘆いたものだ。
1996年当時、水害が頻発する汐止で建設ラッシュが始まり、いたるところで工事が行なわれていた。蔡聡明一家もこの流れに乗ろうと、所有していた農地を売り、マンションを建てることにしたが、よい建設会社が見つからなかった。
真夏の夜、蔡聡明は家族会議を開き、大きな決定を下した。自ら松原建設(後の夢想開発)を設立し、自分で集合住宅の企画開発を行なうことを決定したのである。こうして広告事業から建設事業へと転換し、「ドリーム‧コミュニティ」の第一期を建設した。
この集合住宅を販売し始めた頃、汐止では水害が頻発していて、内見に来た人から「この家には救命ボートはつくんですか」と聞かれることもあったという。ドリーム‧コミュニティの第一期、第二期の購入層の大部分は台北市民で、初めてマイホームを買う人だった。台北の不動産は高くて買えないので近郊の汐止に家を求めてきたが、1階の住民は、水害に遭うと出ていってしまうことが多かった。
打たれ強い蔡聡明は、それでも「汐止に良い物件はないなどと言わせない」と考えていた。そこで、ドリーム‧コミュニティの住民を対象に、ハイキングや文化交流活動を催し、音楽やダンス、調理などのクラブを作り、地域社会としての生命力を培っていった。
すべてが好転し始めているかに見えた2000年、台風20号(象神台風)が汐止に大きな被害をもたらし、ドリーム‧コミュニティの家を安く売ってでも出ていく人が増えた。傷ついた蔡聡明はちょうど台湾大学の康旻杰‧准教授の著書『飛夢共和国』を読んでいた。シアトルでも人口の少ないフリーモント(飛夢)地域が、いかにしてアートや文化を通して活発なコミュニティに生まれ変わったかが描かれた本だ。蔡聡明はこれに感銘を受け、2002年に自らシアトルを訪れ、フリーモントで年に一度開かれる夏至のカーニバルを視察したのである。
夢の町は自分で作る。蔡聡明の長年の努力の下、汐止のドリーム・コミュニティの販売は好調で、多くの人が入居待ちをしている。