安定の中に滲む悲しみ
南沙魯村関懐協会の張輝正理事長の新居を訪ねた。一家7人に与えられた家は34坪、ベッドルーム4つに居間が2つ、設計はシンプルで採光も風通しもよい。警察を退職した張さんは、今は村民の権益獲得を生活の重点としている。「山にあった水田は全部流されてしまい、斜面が少し残っているだけなので、山を下りる他ありませんでした」と言う。山の集落では、農作物も家々で分かち合ったが、今は何もかも買わなければならず、仕事がなければ食べていけない。最初は、自分たちで食べていくために1世帯600坪の田畑を希望していたが、それはかなわなかった。
夕方、奥さんは家の裏で肉を炙り始め、いい香りが漂ってきた。近所の人や子供たちが手に手にご飯茶わんを持ち、階段に座って食べながらおしゃべりを始める。「私たち原住民は、こうやって食事をするんですよ」と奥さんは言う。数年後に山の状態が落ち着いたら、戻りたいと言う。
呉麗珠さんは記者に不満を訴える。彼らは民族村の借家に住んでいたが、慈済からは村落が移転したら全員に永久に住める住居が与えられると言われて同意したのに、彼女の家族は住居を得られなかったのだ。
新しい住居は持ち家のあった人にのみ与えられると最初から知っていれば、他の方法も考えたのに、いま彼女と夫と子供たちは、知り合いの家を泊まり歩くしかないのである。
今年の旧正月前に入居した張素芳さんは、暑いのを除くと、ここの生活には慣れてきたと言う。「もちろん山の方がいいに決まってますが、ここは安全ですから」と言う。子供の教育のこともあり、また自分も子供も雨の音を聞いただけで恐ろしくなるので、もう山には住めないと言う。だが、天気のよい日には、山の集落に戻って一時を過ごすこともある。
張素芳さんの夫は越域引水工事の下請け会社で働いており、収入は安定している。彼女は慈済のパッチワーク教室に通い、7月からは原住民族に手当が支給される技芸教室に通うこととなっており、一家5人の生活は安定している。
那瑪夏郷の被災者がよく口にするのは「山から下りるほかなかった」「慣れなくても、慣れるしかない」といった言葉で、また多くの人がしばしば山の集落に戻って、以前の家の辺りを歩いたり、農作業をしたりしていることから、故郷を離れた悲しみが感じられる。
大愛園区の住民の多くは、政府機関(原住民委員会や労働委員会)が被災者救済のために提供する仕事をしている。地域の巡視や清掃、老人介護、手工芸などの仕事で、半年の期限で日給800元が得られ、災害から3年間続けられる。
「原住民の多くが将来に不安を抱いています」と園区でビーズ工芸を教える民族村の何茹縁さんは言う。これらの短期の仕事が終わると、杉林には工場もないので、十数キロ離れた旗山か、車で40分もかかる高雄に働きに出なければならず、ガソリン代もかかる。
村民たちは木彫やビーズ、織物などの伝統工芸を学び始めた。政府と慈済は、観光と文化創意産業で大愛村の経済を牽引しようとしている。