選択を保留する権利
もちろん新二世として陳又津も、作品の執筆では母国や故郷などに向き合わざるを得ない。だが彼女にとってそれは、失われたり困惑したりするものではなく、体の向きを変えればいいだけのことだ。それどころか、「新二世って何? 新二世なんて元々いないのかも」と言う。人それぞれこんなに違うのだから、誰もが新たな一世ではないか。それなら、あちこち巡りながら、自分の位置を見出せばいい、と。
陳又津の書くものは、まるで散歩したり遊んだりしているような余裕がある。二世というレッテルに傷ついたことがない自分は幸運だったと、彼女は言う。ただ、ほかの子供は傷ついたことがあるかもしれず、政府にはそういうことのない環境を作ってほしいと望んでいる。だがそれには、二世だからという理由をつけてほしくない。
そうした理由で特別な待遇を与えれば、むしろ重苦しくなる。良い環境づくりとは、例えば、飲食店に行けばメニューに4種の言語があって、台湾人、インドネシア人、フィリピン人、カンボジア人がいっしょに見てわかる。何を言う必要もなく、それぞれ居心地がいい、そんな環境だ。
また陳又津は、政府に何かをしてもらうというのではなく、新二世には選択を保留する権利を与えてほしいと言う。多くの自由があれば、自分で出口を探しにいくこともできるからだ。
新二世の旅が継続中だとすれば、では、「準」台北人はいつか台北人になるのだろうか。「それは、どれだけ準備が整ったかによりますね。永遠に準備中の人もいるでしょう。自分がまだ準備中であることを意識すればするほど、そこに留まることになります」
この都会をぶらつく少女の足取りは、何気ないようでいて、実は着実だ。小さな渓流がやがて大河となるように、一言一言を集めて記憶をつづる。また、大河も橋が架かれば渡って、通じ合えるようになる。理解が正確かどうかはわからなくても耳を傾けること、それが大切だ。
陳又津は少年を思わせる明るさと笑顔を持ち、それは作品にも反映している。(陳又津提供)
台北を行く陳又津。橋のこちら側とむこう側を定義せず、ただ相手に耳を傾ける。
散歩や遊びのように言葉の世界を楽しむ陳又津の文章は自在である。