鉄血の詩人、文壇への多大な貢献
新竹県新埔鎮にある呉濁水の旧宅は、伝統的な三合院建築で、青空と黄色く実った田圃の間に赤い瓦屋根が燕尾のように美しい曲線を見せる。
呉濁流旧宅の「至徳堂」には呉家の祖先が祀られている。祖先が大陸から渡ってきてここに根を下ろし、呉濁流は五代目に当たる。1840年竣工の旧宅は戦火にも見舞われ、幾度か改築されて2009年に今の姿になったが、子孫の多くは都会へ出て行き、至徳堂に祖先を拝みにくる人も少なくなった。現在ここを管理する七代目、呉濁流を大叔父と呼ぶ呉戴堯は、歴史的にも文化的にも貴重な建物を廃れさせたくない、また文壇における呉濁流の貢献を後世に伝えたいと考えた。そこで親族と話し合い、新竹県文化局の協力も得て仏堂を修築し、2011年に一般公開したのである。
呉濁流の旧宅は、彼が若き日を過ごし、文学の基礎を育んだ場である。幼い頃に、漢詩を書く祖父の呉芳信とともに左側横堂の一番手前の部屋に暮らしたことが、その創作の基礎となった。友人を訪ねたり、旅をしたりといった日常が呉濁流の詩の題材となった。「詩で日記を書いていたようなものです」と呉戴堯は言う。呉戴堯が学校に通っていた頃、バスで家に帰る途中、新埔大橋にさしかかると、満員の静かなバスの中に突然「百丈の長橋 緑水湾、欄にもたれ回首すれば旧青山…」と吟ずる声が響き渡った。大叔父の呉濁流が同じバスに乗っていて、帰郷する喜びに思わず自作の「過新埔橋」を吟じたのである。
師範学校を卒業した呉濁流は、新竹や苗栗の多くの学校の教師を務め、第二次世界大戦中は南京に赴いて記者になった。日本統治時代から戦後、そして二二八事件までを経験し、社会をリアルに描き批判する小説を多く著している。『水月』『アジアの孤児』『無花果』『台湾連翹』などの作品は、時代に翻弄され、根を失った台湾人の漂泊感を描き切った作品である。
大家族に生まれた呉濁流は、幼い頃の記憶を作品に散りばめた。作品名である無花果(イチジク)や台湾連翹(タイワンレンギョウ)なども、旧宅の庭に植えられていた植物だ。
学校教員、新聞記者、作家、詩人などを経てきた呉濁流は、1964年に雑誌『台湾文芸』を創刊し、鍾肇政、七等生、黄春明といった後の著名作家を育てた。さらに1969年には退職金を投じて「呉濁流文学賞」を設立し、今も文学を志す台湾の若者を奨励している。
1976年、呉濁流は旧宅を台湾文芸資料館として開放しようと考え、書架にペンキを塗り、ガラスの扉をつけた。嬉しそうにその計画を語る表情を呉戴堯は今も覚えているという。しかし同年10月、呉濁流は病で世を去った。
今年78歳になる呉戴堯は無償で旧宅を管理しており、常設展の形で呉濁流の生涯を紹介している。2016年11月には新竹県文化局が新竹文学館としてここで新竹出身の作家も紹介するようになり、呉濁流の遺志が引き継がれた。
ここには呉濁流の作品のファンや研究者が、呉濁流文学の源に触れようと訪ねてくる。呉戴堯はこの旧宅を活用した文芸活動などの申し出を歓迎しており、台湾文壇の振興に力を尽くした呉濁流の生涯を、より多くの人に知ってもらいたいと考えている。

青い空に緑が映える林之助記念館には、外の喧騒を忘れさせる静かな時間が流れている。