
いつの頃からか、放課後は同級生と連れ立って学習塾へ行き、深夜になって帰宅するという生活が若い生徒たちの共通の記憶となった。教育改革が始まってから十数年、今も塾通いの悪習は変わっていない。塾文化はその範囲を広げ、小学校から大学院へ、一教科から全教科へ、都市から地方へと広がり、しばしば正規の学校教育を超えて子供たちの主要な学習の場となっている。これは一体どういうことなのだろう。
明かりが灯り始める頃の台北駅前、ネオンの間を人や車が忙しく行き交う。
新光三越デパートの前に立つと、英会話、公務員試験、医学大学院、証券取扱資格など、さまざまな塾や予備校の看板が見える。看板が覆う窓の中では、激しい競争を勝ち抜いて明るい前途を切り開こうと、無数の学生たちが懸命に勉強している。
6月の入試の季節、多くの人の目を引くのは交差点のビルの電光掲示板に流れる広告だろう。「本塾は再び新記録を突破。20人が満点を獲得。中三の全教科クラス、受験コース生徒受付開始」と赫;哲補習班の金色の文字が暗闇の中をすばやく流れ、二次基礎学力測定の受験生を最後の決戦へとかきたてるかのようである。
台北駅前の「補習ビル」と呼ばれる寿徳ビルへ行くと、さまざまな年齢の生徒や学生が忙しく出入りしている。「劉毅英文」の教室に入ると、赤い横断幕に「高三進級、10万元読解試験競争」と書かれている。教室の入口には「規律を守らぬ者、しつけに従わぬ者は一律退学」などと、劉毅の「鉄の規律」が挙げられている。階段教室の長い机には200人の生徒が座り、誰もが黙ってテキストを読んでいる。迷彩服を着た「隊長」が机の間を見回り、黒板には「残り26日」の大きな文字と、第11条に違反したらマイナス点という文字が見える。

試験会場は学習塾の競争の場でもある。予想問題のプリントが氾濫しているが、試験が終われば誰も見向きもしない。
前進あるのみ
「受験前の1ヶ月は非常に重要です」と予備校で教えて30年になる劉毅さんは言う。家にいると子供はテレビを見たり、携帯をかけたり、お菓子を食べたりして集中できない。だが、この教室に来れば朝の7時半から夜の10時まで、厳しい管理と集団学習の雰囲気の中で過ごすことができる。今年はあきらめて来年にかけようと思っていた生徒でも、試しにと教室に1ヶ月通って法学部に合格した人もいる。
受験シーズンになると、塾や予備校は「追い込みコース」や「戦闘合宿」などを打ち出すが、シーズン以外も気を抜くことはない。学習塾は企業化経営へと転換し、その「顧客」は中学1年から大学受験浪人生まで、「商品」は国語、英語、数学、理科、社会の単一教科から全教科まである。夏休みも冬休みも、全学年を対象にあらゆる時間帯の選択と組み合わせを提供している。
周囲から話を聞いて落ち着いていられる親はいない。長い夏休みの間、学校では半日の補習があるが、それ以外の時間は何もすることがないので、ネットやテレビで過ごしてしまうことが多い。いずれにしても、皆が塾に通っているのに自分の子供だけ家にいたのでは遅れてしまう、塾に通わせなければ、と思うのである。
教育部の統計によると、学習塾の数は1997年には1249軒だったのが2006年には7195軒と、10年で5.7倍に増えた。地域別に見ると、台北、台中、高雄の三大都市に4500軒が集中している。

街を覆いつくす塾や予備校の看板と口コミの情報が受験生の夢を描く。台湾の塾文化の歴史は長く、今も変わっていない。
国民的運動
都会に暮らす人にとっては、この数字は少しもオーバーではない。受験生を持つ知人に尋ねれば、ほとんどが塾に通わせているからだ。中学1年では英語と数学、2年になると教科は増え、3年では5教科全部の塾に通う者も多い。そうなると月曜から金曜まで放課後は毎日塾に通い、帰宅するのは10時過ぎ、週末も勉強のスケジュールで一杯だ。
いい学校に入るために、生徒は塾に通い、親は大金を支払うこととなる。中1から中2にかけては年間の授業料は一教科で2万元あまり、4教科だと割引で8万元である。中3になると年間の授業料が10数万になることも少なくない。どの家庭も出費を控えているが、塾の申込みの時期が来ると、誰もが現金を携えて「一回払い」する。有名教師の授業を受ける場合は、徹夜で並ばなければ良い席は確保できない。
では、なぜこれほど多くの生徒が塾に通うのだろう。
「学校の理科の授業は聞いてもわからないので、塾に行くしかありません」と話すのは、台北の有名校、介寿中学に子供を通わせる梁さんだ。彼女は教育改革理念の擁護者で、本来は子供を塾に通わせようと思っていなかったが、学校の先生の質にばらつきがあるため、子供を学校近くの理科の塾に通わせることにした。すると驚いたことに、それまで理科が大の苦手だった子供が塾のノートをきちんと取り、理科に興味を持つようになったのだと言う。
新店に住む中2の小揚は「学校の教室には勉強する雰囲気がないので」塾に通い始めた。同級生の多くは適当に勉強して私立の職業高校に入ればいいと思っているので、授業中はうるさいし、先生の話も聞かないと言う。中1の時は近くの塾に通っていたが、台北一女に通う姉から、台北に行かなければ良い先生と良いライバルに出会えないと言われ、中2になってから台北の塾に通っている。
「おかげで数学に対する『学術的興味』がわいてきました」と幼い小揚は大まじめに話す。受験を控えた彼女は、母親からは塾に頼らずに自分で勉強しなさいと言われるが、塾で国語と社会科の授業も受けることにした。
梁さんや小揚は特別な例ではない。学校の授業はつまらないし分かりにくい、というのが多くの生徒が塾に通い始めるきっかけだ。逆に塾の先生は、教え方も見せ方もうまく、さらに特別なテクニックも備えている。

6月、大学指定科目試験を受ける200名以上の生徒がシュプレヒコールを上げた後、大教室で静かに勉強する。迷彩服を着た「隊長」が机の間を見回り、緊張感が高まる。
塾講師はつわもの揃い
台湾各地で英語を教えている塾講師の王亮之さんは、単語を暗記する秘訣を上手に教える。例えばisolate(隔離)という単語はI so lateと分解し、遅刻したから「隔離」される、と覚えさせる。
高国華さんの英語の授業は笑いもあるが充実している。3時間で10余りの項目を教えるが、先生は優雅に演壇の上を行き来し、話すのと同時にホワイトボードに単語と文法を書いていく。字は大きくきれいで読みやすく、説明は少しも途切れることなく流れるように続き、100人余りの生徒はずっと集中して聞いている。時々、生徒が英文を読みながら冗談を言い、笑い声が巻き起こる。
「授業にはリズムが非常に大切で、それが途切れると生徒の注意力は維持できません」と高国華さんは言う。彼は助手がボードの字を消している時も話を途切れさせず、リズムを保ち続ける。教室が白けてしまうと生徒は注意力を失い、再び集中させるには時間がかかるからだ。一般の学校の先生がタブー視するエッチな話題も、時には雰囲気を盛り上げるのに役立つという。
多くの教師は、やる気を高め、教室を盛り上げるためにさまざまなアイディアを考えている。文成補習班では「教師が文字を書き間違えたら生徒全員にアイスをおごる」というルールを定めており、中にはわざと字を間違えて、全員でアイスを食べながら教室を盛り上げる先生もいる。高国華さんはスーパーマンやマイケル・ジョーダンのカードに中英文の対照訳をプリントしたものを作り、授業に出たら1枚、新しい生徒を紹介したら5枚渡し、100枚ためたらノートパソコンをプレゼントすることにしている。
「学校でももっと工夫して教えれば、塾など必要ありません」と話すのは予備校の有名国語教師、呉岳さんだ。呉さんは文語文を例に挙げる。中学高校の試験ではよく「一字多義」が出題されるが、きちんとまとめて分析すれば、生徒は簡単に覚えられるという。例えば「蓋」という字の場合、動詞、名詞、文頭に来る場合などの代表的な例文と意味をまとめて教えれば、一目瞭然である。
「以前は塾というのは金儲けが目的だと思っていたんですが、子供の勉強を見ていて、そうではないことが分かりました」と話すのは中3の受験生を持つ陳さんだ。今年5月中旬の最初の中学基礎学力測定の前、娘はしばしば学校を休んで図書館で勉強し、逆に夜の塾は1回も休まなかったという。塾の方がよく分かるし、塾の先生が好きだから、というのが主な理由だったそうだ。
陳さんは、娘が先生とネットで交わしている言葉を見て、塾の先生の方が子供の感情を受け入れていることに気付いた。学校の先生は「君の英語は試験でしか通用しない」などと子供を傷つけるようなことを言うのに対し、塾の先生は「学校の先生は、話したり書いたりする力を伸ばしてほしいと思って言ったに違いない」とフォローしてくれる。学校の先生はマイナス思考で叱って生徒の心を傷つけるが、塾の先生は積極思考の重要性を知っていると陳さんは感じている。

年間十万元を超える授業料を払っても、塾の有名講師の授業を良い席で受けさせるために親たちは徹夜で列に並ぶ。
教育改革焦慮症候群
「学習塾が繁栄しているのには、もう一つ重要な原因があります。生徒の親たちが教育改革に対して焦りと不安を感じていることです。複雑な進学制度、何種類もある教科書、それに政策が変化しすぎることなどです」と指摘するのは政治大学教育学科の周祝瑛教授だ。教育改革が始まった当初は、教科書やカリキュラム、試験、イデオロギーなどが全面的に「緩和」されるという希望があり、民間の力が発揮されると考えられていた。しかし改革の幅が大きすぎ、また「一番難しい学校に入りたい」という人々の気持ちにビジネスが介入することを考慮しなかったため、多くの改革が、意図に反して悪い結果をもたらしているのである。
例えば、以前は教科書は全国統一の一種類しかなかったが、それが自由化され、多くの出版社が独自の教科書を出すようになった。それぞれの教科書の内容や編集方法が異なり、親や生徒は、一冊だけでは学ぶべき内容を完全にカバーできないのではないかと不安を抱くようになった。学者や専門家は、一種類の教科書で十分に入試に対応できると強調しているが、多くの親は安心できない。こうして「5種類の教科書に対応する」という塾のコースに頼ることとなるのである。
教育改革によって実施されるようになった基礎学力測定も不安をつのらせている。「多くの親は、以前の統一入試のようなイメージで現在の入試をとらえています」と話すのは全国教師会教学研究組の詹;正道組長だ。その分析によると、親の世代は統一入試の中で育ったので「たくさん暗記し、たくさん練習しなければ高い点を取れない」というイメージが深く染み付いているのだという。
詹;正道さんによると、現在の中学基礎学力測定はすでに良い方向に発展しているという。「暗記が必要なのは全体の3分の1で、残りの3分の2は理解と応用力を問う設問です」と言う。したがって、どの教科も基本的な概念を理解していなければ、どんなに練習しても高得点は取れない。しかし、学校では基礎学力測定の研修を受けた教員が限られているため、多くの教員は長年の習慣から抜け出すことができず、その教え方も、データが揃っている学習塾にかなわないのである。
「親の焦りは深刻です」と話すのは南港高校の徐月娥校長だ。現在の親は子供に大きな期待を寄せているが、自分たちは仕事に忙しいため、子供の教育に自分で時間をかけることはできない。成績が全てでないことは頭では分かっているのだが、現実が目の前にあるため、広い視野で教育を考えることが難しいのである。
少なからぬ教員や学者は、学習塾が親や子供の負担を軽減し、不安を取り除くことができるなら、否定すべきではないと言う。しかしそれと同時に、学習塾の効果と、子供の心身に及ぼす影響を検証するべきだと呼びかける。

受験勉強のために大金を払って予備校に通う人もいれば、仲間と一緒に教室で自習する人もいる。写真は今年の大学指定科目試験前の建国高校の教室だ。
ガソリンスタンド
塾が補習の場であるという前提に立ち返れば、「不足」を補うための補習は、悪であるどころか、必要なものだと多くの教育学者は考えている。
「学習の過程では繕ったり水を与えたりすることが必要です」と話すのは万芳高校の校長で教育改革推進者でもある周麗玉さんだ。中学に入ると知識系統はしだいに複雑になり、前提となる部分が理解できていないと、その先に進めなくなる。
中学の数学の場合「基礎の計算ができないと、四則演算や方程式が分からなくなります」と塾で数学を教える張正さんは言う。例えば、一元一次方程式が分からなければ、二元一次方程式や連立方程式、函数などにも影響が出る。こうした時に、誰かが前段階を整理してあげれば、その先の学習が容易になる。
英語の場合は、発音記号や音節の分け方などを十分に理解していなければ、単語の暗記も難しくなる。語彙が少なければ英語のレベルも上らない。こういう場合、塾の先生が英語の語感を強化してくれれば、英語学習の達成感や自信もつくことだろう。
「親と子供と先生が話し合い、問題の所在を探すことです」と周麗玉校長は言う。そして、その不足を補うために相応しい学習塾を探し、問題を克服できたら塾を止めてもいいのだと言う。

塾の授業が終わると、ビルの下の文昌帝君の神像に線香を上げる。受験となれば若者も神仏のご加護を求める。
塾通いの後遺症
問題は、もともと「補助的」役割を果たすべき学習塾や予備校が今では学校と肩を並べ、時には学校を超える存在となっている点である。なぜこのような事態になったのだろうか。そこにはどのような悪影響があるのだろう。
「中学で、全教科を塾で学ぶという習慣ができると、それは高校から大学まで続きます」と徐月娥校長は言い、塾通いには深刻な後遺症があると指摘する。塾では重点をまとめてくれるので、学習は楽になるが、長年にわたって人がまとめてくれるのを頼りにしていると、自分で読んで消化し、知識を整理するという訓練の機会を失ってしまうのである。また塾では機械的な重複練習が多いが、こうした点数を取るための練習に時間をかけるより、基本概念を理解して思考や応用に時間をかけた方が自分の力を高めることができる。近年は「大学の高校化」や大学院生の学問に対する態度や能力の不足が論じられているが、塾文化による影響も少なくない。
最近増えている「作文」の塾も疑問視されている。作家も学者も、作文の補習には効果がないだけでなく、型にはまった「模範作文」は生徒の思考と感情表現を損なうと指摘する。世新大学中文学科の教授で著名な作家でもある廖玉蕙;さんは「手本通りに書くように練習した作文の点数は低いです」と言う。塾は表現の技術だけを重んじるので、作文の質の向上には役立たない。大学入試の作文でも、同じ内容の文章をしばしば目にするという。
これは本当にあった笑い話だ。ある年の基礎学力測定の作文のテーマは「樹」だったが、50人のうち38人が「祖父の家のガジュマルの木」をテーマにしていて、しかもその木の下でお話を聞いたことを書いていた。また「喪失」というテーマの作文では、3万人の受験生が祖母を失った悲しさを書いており、その点数はいずれも低かったという。
教育の本質を考えると、学習というのは探索の過程である。周麗玉校長はスイスの教育心理学者ピアジェの理論を引いて説明する。知識を吸収する仕組みは人によって違うので、子供は自分で学ぶのであって他人に教えられるのではない。そのため、教師と生徒の対話のための空間を残しておくことに教育の意義がある。しかし、塾は直接的で速成の学習方式を追求し、その空間を圧縮してしまう。ましてや塾は「高得点」を唯一の目標としているので、功利的であり、学習がすでに一つの道具と化している。
どれだけ学んだか
しかし「親や生徒がこれほど塾に頼っているという点で、学校側はもっと反省しなければなりません」と周麗玉校長は言う。正常な教育と進学は矛盾するものではない。悪習を正す責任はやはり学校と教員にあるという。
「先生の授業が分からない」という点については多くの原因がある。現在の中学ではレベル別の学級分けをしていないため、クラス内の生徒の学力の開きが大きいことも原因の一つかも知れない。学力の高い生徒と低い生徒に同時に教えなければならないため、教員はしばしば中間レベルの授業をするが、その結果、分かる生徒も分からない生徒も不満を感じることとなる。学校でグループ別授業を行なったり、放課後に補助教育をして不足を補ったり、あるいはレベル別の試験を行なうなどすれば、塾へ通う生徒や勉強をあきらめてしまう生徒を減らせる可能性もある。
また、現在の試験を見ると、中学ではほぼ毎日のように試験が行なわれており、生徒は学習意欲を失ってしまう。試験の目的はもともと「身体検査」のようなものだが、教師は毎日試験に忙しく、生徒の弱点を見つける手助けをすることができない。勉強のできる子供は自分で解決できるかも知れないが、そうでない大部分の生徒はどんなに試験をしても進歩するわけではない。試験の目的を達成することができないばかりか、逆に成績の良し悪しを判別する道具と化しているのである。
教員が懸命に教えている一方で、生徒がどれだけ「学べたか」を見過ごしている現象について、全国PTAの蕭慧英理事長は「生徒は親と生徒に責任を持つべき」という新しい観念を提唱している。これは、これまで「教育は良心の仕事である」と考え、教師は自分に責任を負うとしてきた観念を打破するものだ。
例えば、ある化学の先生は生徒が塾に通っているのを見て「私の教え方は、そんなに悪いのか」と恥ずかしく思い、課外授業を行なって授業をやり直し、生徒一人ひとりの理解度を確認した。
「教育改革が、学校と先生にこのような責任感と気概を持たせることができれば、塾や予備校も無用になるでしょう」と周祝瑛教授は言う。
塾の繁栄は、心理、社会、教育などさまざまな問題を映し出しており、その良し悪しは一概には言えない。青春の日々を詰め込み教育から解放するのはよいことだが、教育改革への不安や社会的プレッシャーの下で、どうすれば親や生徒は流されることなく自分のニーズを見つめることができるのか、社会全体が考えていかなければならない課題である。
「高3のつまらない日々の中の最も楽しい時間、人生経験を教えてくれてありがとう」と、塾の掲示板には教師を「おとうさん」や「尊敬できる友達」と慕う言葉が書き込まれている。
自分を助けてくれる良い先生にめぐり合い、あるいは進学の道を開いてくれる塾に出会うことができれば、塾に頼らざるを得ないという悩みや問題も、そのまま消えていくのかも知れない。