誤解された海
こうしてカヤックブームの火付け役となった蘇達貞は海の波を専門に研究してきた。海洋大学卒業後にハワイに留学して海洋工学を専攻し、母校で教鞭を執ってきた。退官後は花蓮に移り住み、自分の専門を活かして多くの人に海を知ってもらいたいと考えた。「台湾の海はこれほど美しいのに、子供の頃から海は恐ろしいという教育を受けてきたため、人々は海について何も知りません。深く根付いた海を危険視する文化を何とか変えたいと思ったのです」と言う。そのために「蘇帆海洋文化芸術基金会」を設立し、海に親しむ教育を推進している。
だが、この任務は思いのほか難しいものだった。まずは若い世代から着手したいと考えたのだが、危険だと考える親や学校の反対に遭ってしまう。そこで彼が開催する活動にはいつも「安全に注意」という言葉が掲げられ、その内容が具体的に示される。「安全には三つの軸があります。第一は人、第二は環境、第三は装備です。人の専門能力を理解し、当日の海の状況を観察し、妥当な装備を整える。この三つの状況を理解してこそ『安全規範』を定めることができます」と言う。「コーチと初心者とでは、安全規範も違います」と蘇達貞は言う。「波が1メートルに達したら海での活動を禁止するというのは意味がありません。サーファーはどうすればいいのでしょう」と不満を口にする。ところが台湾の海岸線には至る所に「水深危険」という標示があり、管理機関はこれで「安全」を確保できると考えているのである。
海に関する誤った観念も多い。例えば「波にのまれるから危険」と言われるが「人を連れ去るのは波ではなく海流なのです」と言う。観察すればわかるが、波は常に海岸線と並行していて、必ず岸に打ち上げる。もし海に落ちてしまったら、懸命に泳いで戻ろうとしてはいけない。ライフジャケットを着けていれば、波に任せているうちに岸へ押し上げられるのだ。
2011年3月11日の東日本大震災の時、関連機関は津波が台湾にも来ると予測した。しかし、蘇達貞が花蓮の塩寮で映像撮影したところ、台湾の東海岸では津波は発生しなかった。彼の分析によると、津波の発生は地形の影響を受ける。浅い湾に入り込んだ波は行き場をなくし、蓄積して水位が上がるが、台湾の東海岸の断面は垂直で、砂浜や大陸棚といった波が蓄積する地形がないため「台湾で津波が発生する機会はほとんどない」と言うのである。
蘇達貞のさまざまな話から、台湾人は海に対して多くの誤解を抱いていることがわかる。