
「南の爆竹祭り、北の天灯(夜空に上げる紙風船)」と言われるように、毎年旧暦1月15日の小正月に行われる行事としては、台南の塩水で催される爆竹祭りと、台北県平渓の天灯が有名だ。かたや火薬臭の充満する荒々しい祭りで、もう一方は平和的なムードに包まれた催しと、好対照を見せている。
今年の小正月はバレンタインデーの翌日、しかも週末と重なった。そのうえ10年のうち8年は小正月に雨が降るという山里の平渓が、今年は風も雨もなしという好天に恵まれて大盛況となり、20万余に上る天灯がともされ、それぞれの願いを載せて空へと舞い上がったのである。
こんな伝説がある。天の白鳥が下界で狩人に撃たれ死んでしまい、これに怒った天上の人々は、1月15日に下界に大火を起こして焼き尽くしてしまおうとした。中に一人だけ、人間に同情した仙人がいて、「15日の晩には家々に赤い提灯を掲げ、花火を打ち鳴らして火事のように見せればいい」と教えてくれたおかげで、この世は大火を免れた。それが、小正月に提灯を掲げるランタンフェスティバルの由来だという。
小正月に提灯を掲げ、湯圓(汁に浮かべた餡入り団子)を食べる風習は、中国大陸から来て、台湾でさまざまな形に発展した。中でも有名なのが、塩水の爆竹祭りと、平渓の天灯祭りだ。前者は、明の鄭氏時代に疫病よけとして始まり、後者は、天灯を空へ放ち、遠くの者に無事を知らせる役割を果たしていた。いずれも先人たちの苦難の歴史を語るものであり、同時に、台湾の小正月を飾る、最も華やかな行事と言える。

一つひとつ願いが込められた天灯がゆっくりと舞い上がり、人々に静かな幸福感をあたえる。平渓郷の天灯祭りは台湾で最も人気がある小正月の行事だ。(蔡斯撮影)
昔の携帯電話
「孔明灯」とも呼ばれる天灯は、三国時代に諸葛孔明が発明したと言われている。当時は、軍事情報を伝えるためや、天に浮かべて星に似せることで、敵の司馬懿軍が作戦の根拠とする「星相」を狂わせる目的があった。それが後に民間に伝わり、神に祈りを捧げる道具となったのである。
天灯の作り方は、まず、細く割った竹で輪を作り、その上に十字になるように針金を渡して、底の部分を作る。風船の部分は、以前は4枚の紙をつなげて周囲を囲み、上の部分にふたをするようにもう1枚かぶせていたので、中国古代の官吏がかぶる帽子の形にそっくりだった。その後、改良が加えられ、今では葉っぱの形をした4枚の画仙紙をつなげるだけになっている。次に、火をつける部分を用意する。15枚ほどの紙銭を、灯油とサラダ油の中に約20分つけておき、それを十字になった針金の中央に取りつける。紙と紙の間に少し隙間を作ってから、そこに火をつけると、天灯内の空気が熱されて、舞い上がるというわけだ。原理は熱気球と同じである。
台湾の他の地域ではたいてい飾り提灯で祝う小正月に、どうして平渓だけが天灯を放つようになったのだろう。「諸葛孔明と同じで、情報を伝えるためのものだったのです。昔の天灯は、今でいう携帯電話のようなものでした」と言うのは、平渓郷鉄道ファンクラブ会長の李温泉さんだ。
清の道光年間(1820〜50年)に大陸の福建省安渓や恵安から、台湾の平渓郷十分寮へと移住してきた人々は、まだ暮らしの豊かでなかった時代、年末年始になると強盗に襲われることがあった。そこで老人や女性、子供たちは主な家財道具を持ち、山の中に隠れた。小正月を過ぎた頃、家の番をしていた使用人が天灯を放って、山に隠れている人々に「無事だから帰って来い」と知らせた。それが次第に今日のような行事となったのである。「天灯の発祥地と言える十分と南山の両村は毎年、基隆河を隔てて天灯を放ってきましたが、以前は平渓でも他の地域では、天灯とは何なのか知らない人が多かったものです」と、天灯会の胡民樹さんは説明する。

肌寒い山里の夜、天灯が空に上っていく。この祭りで平渓郷は世界的な観光地になったが、それとともに多くの課題も生じている。(月撮影)
十分村の天灯狂
平渓の天灯は、十分村の天灯を有名にした胡民樹さんを抜きには語れない。「50歳を超えたばかりですが、天灯を作るようになってすでに40年以上の経験があります」と言う胡民樹さんは、幼い頃の思い出を次のように語ってくれた。小正月の天灯作りは、昔は一家総出の大仕事だった。大人たちは早朝から、天灯に使う竹を切りに山に入る。また、当時は今のように大きな紙も手に入りにくかった。「昔の天灯は、70〜80センチほどしかありませんでした。今はその倍近くになっていますが」と胡さんは言う。
胡さんは子供の時、光りをよく通す、大きくて白い紙を手に入れようと、いろいろ思案した。そのうち、旧暦の1月9日にお供え物にするお菓子に敷いてある紙が、天灯には最適の材料であることに気づいた。そこで胡さんは、毎年小正月の前日には、菓子屋でのアルバイトを買って出たという。もちろん、裁断前の白い紙を手に入れるためだった。
以前は、一年にたった一つしか天灯を作らなかったし、材料もそれほどよくなく、うまく飛ばないことも多かった。だから、空まで上がる天灯を作れることは、自慢できることだった。胡さんが自分一人で天灯を完成し、空高く上げることができたのは、10歳の時だった。その時以来、胡さんは天灯の魅力に取りつかれるようになった。
当時は、十分村と南山村が競うようにして基隆河の両側で天灯を上げていたが、それでも双方合わせて30個も上がれば多い方だった。「あの頃はもったいなくて、よく天灯を追いかけて走りました。どこに落ちたか確認して、それが山の上でも谷底でも、たとえ肥溜めの中でも拾ってきてまた上げたものです。ある年などは、同じ物を拾ってきては上げることを繰り返し、合計6回上げたこともありましたよ」と、胡さんは懐かしげに当時を振り返る。

天灯祭りは若者にも人気がある民俗の祭典だ。この学生たちは別の学科への編入を祈願している。(蔡斯撮影)
天灯で光を放つ
このようにして天灯に魅せられた胡さんは、1993年、20数人を集めて「台北県天灯民俗文化発展協会」を設立する。お金を出し合い、特別規格の材料を注文して、さらにそれぞれで家族や友人を動員し、小正月までに天灯を作り上げておく。当日は十分小学校に集合し、いっせいに天灯を放つのである。次第に失われつつあった天灯の習慣を、伝え残そうというのが目的だった。
100を超える天灯がいっせいに舞い上がるというニュースは次第に広まり、とりわけメディアで紹介されると一躍有名になって、どっと人出が押し寄せるようになった。「1994年でしたか、その年は何万人もが訪れ、十分村の食堂だけでは食事がまかないきれず、そのうえ交通も完全に麻痺してしまいました」と、平渓の天灯が有名になったいきさつを胡さんは語る。
地元の祭りとして県が加わるようになり、小正月の天灯祭りは次第に盛大になっていった。ミレニアムを迎える1999年は台湾大地震を経た後でもあり、平渓の天灯祭りは「全国被災者と世界平和のための祈り」がテーマとなった。そこで作られたのは、高さ18.9メートル(六階建ての高さ)、重量200キロに及ぶ「天灯王」で、ギネスブックに記録されただけでなく、世界の63の国々でテレビ放映された。現在、平渓の天灯祭りは、観光局によって台湾三大ランタンフェスティバルの一つに指定され、さまざまな企画が進められている。例えば、今年は平渓の鉄道と天灯をテーマにしたコマーシャルフィルムが撮影され、日本のテレビで放送されるなど、平渓の天灯祭りは台湾を代表する文化的行事となっている。
かつて文化伝承の危ぶまれた天灯は、こうやって再び活気を取り戻した。天灯会のメンバーによって製作技術にたゆまぬ改良が加えられるだけでなく、平渓郷の中学生や小学生も今や天灯作りの名手となり、他県の学校に出向いて天灯作りを指導するほどになった。「天灯は、我々平渓郷の誇りです。元日に帰省せず、小正月になって帰ってくる者も多く、小正月は元旦と同じくらい大切な日になりました」と李温泉さんは言う。

不況の中、ロトくじが人気を呼んでいる。今年はロトに当たるようにと願う人が多かった。(月撮影)
地域の祭りを全国規模に
近年は、地域活性化の「金のなる木」として、地域の文化や行事などを大々的に打ち出そうという動きが活発だ。地域でひっそりと行われていた文化行事が、次第に発展して全国規模の祭りとなり、ひいてはそれによって国際化が図られる。宜蘭の国際子供の遊び祭り、美濃の黄蝶祭り、三義の木彫祭り、塩水の爆竹祭りなどがそうであり、もちろん平渓の天灯祭りもここに含まれる。
地域の行事が全国規模になることの利点は、何と言っても押し寄せる観光客と、彼らが落としていく金だろう。人口5000人に満たない平渓郷に、今や天灯祭りとなると、数10万人に及ぶ観光客が訪れる。経済が活気を呈すると若者たちのUターンも始まり、普段はひっそりとした十分の町がたいへんなにぎわいとなる。十分駅近くの食堂では、帰省してきた10数人の家族もみな店を手伝うことになるし、天灯を売る商店には、小正月だけで30万元以上の売上げを出す店もあり、さほど売れない店でも5万元は売れるという。
普段は人影の少ない平渓郷にとって、1年に1度の小正月は大きな収入源なのである。天灯を製作販売する人や、飲食店の経営者にとって、1年に3日も続く交通規制も何ということはない。「人出が多いほど、稼ぎになりますからね」と、天灯を売る露天商は言う。
地域が熱心に自己PRを続けるのを、文化評論家の陳板さんは次のように評する。「大規模な祭りが悪いのではありませんが、きちんと準備ができていない状態で、ひたすら観光客を呼び込むと、文化をどんどん消耗してしまうことになりかねません」と。文化産業は、商売で終わってはいけないというのだ。
では準備とは何か。陳板さんによれば、平渓では組織・規則作りが整っておらず、外から来た露天商などに対しても無対策で、飲食店などの経営方法も行き当たりばったり、とても地域の特色を出すところまでにはいたっていない。「天灯祭りは地域と深く結びついた、地域の特色を見直すものでなければならず、祭りを通し、自信を持って他地域と対話できるものであるべきです」と陳板さんは言う。
確かに、盛大な天灯祭りが終った後の平渓では、木や畑、川辺、線路、電線などいたる所に天灯の残骸が残る。また、天灯広場の近くの住人は、一晩中、竹竿を片手に、失敗して燃えながら落ちてくる天灯を払いのけなければならない。

大規模なコンサートに若者は熱中するが、イベントが多くなった分、感動は減った。カーニバルのような文化的行事は天灯祭りの静かな喜びに背離するものなのではないだろうか。(蔡斯撮影)
恋人たちの天灯
今年の天灯祭りは初めて、正月9日の玉皇大帝の生誕日と、バレンタインデー、小正月をドッキングさせた盛大な催しとなった。台北県観光協会によって企画された「平渓天灯祭りを知る旅」では、参加者は列車に揺られ、日本統治時代から残る皇太子迎賓館や、1960年代に栄えた菁桐炭鉱跡、十分の古い町並み、台湾鉱業博物館、天灯製作などを見学し、平渓郷の自然や文化の美しさが楽しめた。
旧暦1月9日の玉皇大帝生誕日前日、つまり2月8日の夜、チャルメラや銅鑼の音が高らかに響き、十分観光サービスセンター広場で平渓郷南極社北管と復興社大鑼鼓陣の楽隊が、2003年天灯祭りの開幕を告げた。陳水扁総統も参列し、20メートル近くある天灯王には「雨水は豊かに、口水(つばき、つまり口論を指す)は少なく」と願い事が書かれていた。子の刻の11時になると、家々では玉皇生誕を祝う爆竹が鳴らされ、会場では基隆や台北などから駆けつけた行楽客の願いを載せ、200もの天灯がいっせいに放たれた。
続く2月14日と15日の土日は、ちょうどバレンタインデーと旧暦小正月に当たった。バレンタインデーには、普通の白い天灯だけでなく、幸福を表すピンクや、情熱を表す黄色の天灯が、空を鮮やかに彩った。とりわけ目を引いたのは、彼女へのプロポーズが書かれた高さ3.6メートルの天灯で、ヒロインの方も恥じらいながら「お受けします」と書かれた天灯を上げた。
一般の伝統行事と少し異なり、今年の平渓天灯祭りは若者をターゲットに、梁静茹、李威、万芳、李心潔、光良といった若手アイドルが招かれ、溌剌とした歌声が平渓郷にこだました。
「600万元ある予算のうち、天灯上げには5パーセントしか費やされていません。主催者は力の入れどころをちょっと間違えているのではないでしょうか。歌やダンスショーを加えれば確かににぎやかにはなりますが、天灯製作や当日の天灯上げにもっと経費を使ってもらわないと。それこそが祭りの主役なのですから」と、胡民樹さんは訴える。
「寒夜群山、千灯並起」という言葉そのままに、何百もの天灯が、美しい平渓郷の山々を背景に舞い上がった。静けさに満ちたその情景に、新たな1年への祈りをつぶやかずにはいられない。もちろん、主催者側の県や住民も、単に経済の活況を祈るだけではないだろう。

天灯祭りの日になると、大勢の人が平渓の文化と人情に触れようと平渓線の小さな列車に揺られてやってくる。(月撮影)

大人も子供も心を込めて天灯に願いを書き、お互いに新年の希望を祝福する。(月撮影)