王小棣は、この短編ドラマのシリーズが若い人の心に台湾文学の種を撒くことを期待している。「大部分の若い人の読書習慣は変化していて、紙の本から現在のビジュアル鑑賞に主流が移っています。ドラマのビジュアル鑑賞を通じて若者に働きかけ、ここから文学の原作に当る気になってくれることを願っています」と彼女は語る。
この数十年をかけて、王小棣は台湾のために社会意識を備えた演劇と映像作品のベンチマークを提供してきた。去年、脚本家であり監督としても著名な彼女に文化界の最高栄誉である国家文芸賞が授けられ、その映画、テレビ、映像、ドキュメンタリー、演劇などにおける傑出した功績が称えられた。その間、常に社会の底辺層に深い関心を寄せ続け、創造的で見応えある作品を制作しながら、現代の台湾社会の多様な文化と複雑な歴史の問題を直視してきた王監督に、審査委員は高い評価を与えた。
例を挙げると、青少年の行為と社会環境、警察など幅広いテーマを深く掘り下げ、2000年から2013年に放送された5本のテレビドラマがよく知られている。
映画評論家の鄭秉泓は国家文化芸術基金会の審査講評において、これらの作品が「台湾の視聴者に自己を見つめなおすように伝え、理想と現実とのギャップを理解することで、家庭生活やジェンダー、教育制度や職場文化など異なる場における『階級差異』からくる相互理解の難しさを解消しようとしたものである」と評したのである。一言でいえば、王小棣は21世紀の台湾のために現代の史伝を試みたと絶賛する。
「閲読時光」シリーズの作品は、毎篇20分ほどの本編に、専門家や作家と評論家が原作を討論する5分の対談が付けられている。これらの作品は、今年3月に金穂映画祭で初めて上映されてから、公共テレビや台湾テレビ(TTV)やナショナルジオグラフィックチャンネルなどにおいて相継いで放送された。
閲読時光シリーズの作品では、台湾の各時期、各時代における社会階層とエスニックの問題が取り扱われている。中でも時代的に一番早い作品は、楊逵原作『送報伕(邦題:新聞配達夫)』を脚色した作品である。原作は日本語で書かれていて、日本時代に「台湾新民報」に連載されたものである。その後、1934年に日本の「文学評論」誌に入選し、これにより楊逵は日本の文壇に認められた最初の台湾作家となった。
この小説は、楊逵が1920年代に日本に留学した経験に基づいて書かれている。主人公は東京に職を求めた台湾人の楊という青年で、楊は新聞配達人として就職するが、そこで雇用主に搾取されてしまう。この雇用主の搾取は、楊青年が台湾にあった時に、家族が製糖工場へ田畑の売却を強制された経験を思い起こさせた。しかし、彼は同僚と協力してストライキを発動し、そのあるべき権利を取り返すのである。ラストシーンで楊青年は帰国の船上で甲板から遥かに台湾を望み、外見は美しく豊かな島だが、針を刺すと悪臭漂う膿みが迸ると慨嘆した。
短編ドラマ『送報伕』の脚色と監督を担当した鄭文堂は、大学時代に、社会の底辺に対する搾取を反映した楊逵の小説を読み衝撃を受けという。そこから、楊逵が白色テロ時代に拘禁された時に家族に宛てて書いた「緑島(収容所の島)からの手紙」などを読み進めた。
白色テロとは政府が反体制派を迫害した時代であり、1950から60年代に最盛期を迎え、1987年の戒厳令解除まで続いた。この特殊な時代に多くの文学作品が生み出されたが、ここでも短編ドラマに背景を提供している。このドラマは季季(本名は李瑞月)が2006年に出版した『行走的樹』をベースに、王小棣が脚色と監督を担当している。これは10年にわたって政治犯として収監された白色テロの被害者である亡夫と作家の物語で、作家と前夫との間の複雑で紆余曲折に富む関係を描いたものである。
『行走的樹』のラストシーンは、すでに別れた妻が何の知らせもなく転居したことに激怒した前夫が、妻に刃物を振りかざすシーンである。実体験でもあるこのシーンについて、ドラマの後の対談で、季季は当時を思い起こして、その時に恐怖を感じたが絶望はしなかったと語る。10年に渡る獄中の辛い歳月が夫の性格と価値判断を大きく歪めていたことを理解していたので、彼女は夫を許すことを選んだのだという。
1970年代に入って台湾社会はようやく開放に向かっていった。そこから文学でも台湾における生活を描くことを主とし、中国大陸を文学の伝統とする価値観を疑問視する運動が始まった。1974年には『送報伕』の中国語訳が出版され、台湾の芸術家や知識人は台湾生れの本土文学に改めて関心を抱くようになった。鄭文堂は自らの作品を語り、「楊逵の影響を受けて映画界に入ったのですが、その処世態度に倣って志を共にする仲間を作り、公平正義の理想を追い求めたのです」と影響を認める。
その鄭文堂は張恵菁の『蛾』も脚色している。これは同シリーズの柯裕棻の『冰箱(冷蔵庫)』と同じく、台湾社会におけるジェンダーの問題を取り扱っている。『蛾』においては女性二人の秘めやかな関係を語るのだが、『冰箱』では男女の恋人の間で、浮気をつづける男と恋人の緊張した関係に焦点を当てる。
映画評論家の藍祖蔚は、王明台(『行走的樹』では夫を演じている)監督の『冰箱』について、「閲読時光」シリーズでも最も大胆かつ独創的な脚色と評する。原作では後悔している男の視点から描かれていたのだが、その狂言回しの役割が女性作家であるヒロインに移され、叙事の視点の性別が転換している。この転換により、映像作品は単なる脚色レベルではなく、新しい解釈の高みを獲得したのである。
藍祖蔚はシリーズのほかの作品もそれぞれに高く評価している。たとえば『老海人』は現代の文化的側面を豊かに描いていると評する。楊逵に対して鄭文堂がオマージュを捧げたように、監督の鄭有傑は原作者であるタオ族作家の夏曼・藍波安(シャマン・ランポアン)を尊敬し、その影響を強く受けてきた。『老海人』は台湾の原住民族であるタオ族の若い男女の愛情を描き、タオ族への漢文化浸透を語り、現代社会と伝統的価値の衝突を描いたものである。
鄭有傑は初回上映会後の座談会において、シャマン・ランポアンと台湾の文学的伝統に深い敬意を表明した。「文学は一個の国家の精神の粋であり、この精神がなければ私たちのようなクリエィターは映像作品の制作に導かれることはなかったでしょう」と彼は語った。
「閲読時光」シリーズは、台湾の多様なエスニックや社会階層、文化を正確にとらえている。劉大任原作の『晩風細雨』(安哲毅監督)は、国民党政府が台湾に撤退してきた1940年代末の時代背景から、その後を生きた一人の人物の足取りを追ったもので、やむなく故郷を離れてから40年の後、再び中国大陸の故郷に戻る物語である。
このシリーズの大きな特色の一つに、中国語、日本語、タオ語、閩南(福建)語と、多くの言語が同時に用いられていることが挙げられるだろう。閩南語は、台湾で最大のエスニックグループである閩南人が用いる優勢言語であり、老母と娘の関係を描いた短編ドラマ『後来(その後)』(廖玉蕙原作、王明台監督)の重要な言語ともなっている。
「閲読時光」シリーズは、台湾文化に鮮明にみられる現代的要素も取り扱っている。駱以軍の『隆生十二星座』(廖士涵監督)では、青春の淡い恋心にテレビゲームに夢中になる若者を絡めて描いている。朱天文原作の『世紀末的華麗』(沈可尚監督)においては、あるファッションモデルの物語を通じて、華やかに奇怪に煌めく現代都市を見つめている。王小棣が監督となった王登鈺の『大象』は、映画館の若い映写技師が早逝した母に抱く思いを描くが、描写は幻想的な色彩が色濃く立ち込める。
「これらのシリーズ作品は、台湾の視聴者に、より多様で深みあるテレビドラマを提供しようと意図したものですが、それと同時に、文学作品を取り上げることで、私たち台湾の豊かな文学の伝統に対するオマージュになっています」と王監督は、「閲読時光」のドラマシリーズにかけた目的と意図とで締めくくった。
『送報伕(新聞配達夫)』は、日本時代の東京で新聞配達をする楊という台湾の若者が、雇い主に搾取され、同僚たちとストライキをして権利を勝ち取る物語だ。
『老海人』は、台湾の原住民族タオ族と漢民族文化や現代化との衝突と葛藤を描く。
『行走的樹』の一場面。十年にわたって政治犯として投獄された白色テロの犠牲者である亡き夫と作家の季季との複雑な関係を描いた作品。写真は王小棣監督の撮影現場の模様。
『行走的樹』の一場面。十年にわたって政治犯として投獄された白色テロの犠牲者である亡き夫と作家の季季との複雑な関係を描いた作品。
駱以軍の『降生十二星座』(廖士涵監督)は、未熟な恋愛とテレビゲームに熱中する青春を描いている。