高級磁器が食を引き立てる
美しい食器に盛りつければ、料理の見た目も一層引き立つ。60年以上にわたり、大同磁器は常に台湾の食卓で大きな役割を果たしてきた。「源をたどれば、これは祖父の功績です」と大同磁器の二代目経営者・廖伯祥は、ゼロから事業を始めた祖父の時代を語る。
第二次世界大戦が終わり、台湾が祖国に復帰して間もない頃、台湾には陶器しかなく、磁器はなかった。技術も原料もなかったからである。大同磁器の元董事長・廖長庚は、父が行なっていた鋳物食器の販売を引き継ぎ、日本から各種の食器を輸入していた。そうした中、親族で食事をしていた時に興味がわき、資金を集めて磁器工場を建てようと考えたのだという。
新北市淡水区にある竹囲工場は大同磁器発祥の地である。「当時、1元を払って日本から技術指導を受けたそうです」と廖伯祥は、当時の経緯を語り、今も不思議でたまらないと言う。日本時代の教育を受けた廖長庚と親戚の陳錦堂らは、幾度も日本へ行って磁器工場と交渉したところ、三郷陶器株式会社(当時はセイコーの子会社)が協力してくれることになったのである。
こうして1960年以降、台湾初の素焼き用トンネル窯、還元本焼き窯、上絵窯などが設置され、生産工程に必要な各種設備も整った。大同磁器は台湾初の一貫作業の最先端磁器工場となり、これまでの陶器とは違う高品質の磁器が量産されるようになったのである。
先端技術の他に、原料も重要である。台湾の磁器土の成分はニーズを満たすことができず、しかも枯渇しつつあった。そこで日本から技術指導を受け、大同磁器はイギリスやニュージーランド、香港から粘土とカオリナイトを、日本と韓国から陶石や珪砂、長石を輸入することにした。そして1963年8月10日に、台湾人の手による最初の100%の磁器製品の生産に成功したのである。「年配者の話によると、当時はこれが大いに注目され、小売店が買い付けのために現金を持って工場に押し掛けてきたそうです」と言う。
磁器工場では燃料も重要で、生産量を拡大するためには原価を抑える必要がある。そこで1966年、大同磁器は新竹県の香山に第二工場を建設した。現地の天然ガス燃料を手に入れやすいからだと廖伯祥は説明する。それから十年後、さらに新竹県新埔鎮太平窩に第三工場を建てた。ちょうど大同磁器が急成長を遂げていた時期で、工場の面積は7600坪から1万6000坪まで拡大した。「1985年2月には、陶磁器メーカーとして初めて国家正字標記(CNSマーク)の使用権が認められました」と言う通り、大同磁器は国民が信頼を寄せる代表的ブランドとなったのである。当時は多くの企業が、大同磁器の製品をギフトや景品として仕入れていた。さまざまな抽選活動などでも、景品に大同磁器の製品が名を連ねていた。富貴を象徴するおめでたい絵柄が入った大同磁器の万寿シリーズは、婚礼の引き出物や転居のお祝いなどとして愛用された。
多様な大同磁器の製品。まったく模様のない純白のシリーズは、発売するや大きな反響があり、今も広く愛されている。