「台湾モダニズム文学の祖」「文壇の巨匠」「崑曲の推進者」「将軍の子」など、白先勇には様々な形容詞が付けられている。
南京大学文学部の劉俊教授は分厚い『白先勇伝』一書を著した。この書は、近代文学の巨匠を徹底的に研究したもので、これにより白先勇が追い求めたのは情と美であると結論付けた。この劉教授の見解は、本人も認めている。
白先勇、デビューと同時に文壇の頂点に
『台北人』『孽子』『玉卿嫂』『遊園驚夢』などその著名な作品はすべて青年時代の作であり、白先勇はまさにデビューと同時に文壇の頂点に立ったと言われる。
建国高校に在学中の10代に著作を開始したが「当時は心に言いたいことが溢れていて、小説を書き始めました」と語る。
最初の作品『金大奶奶』を発表したのは20歳過ぎだった。一般的に多感で耽美的な題材を好む青年作家のスタイルとは異なっていて、夏済安教授は白先勇文学を成熟した老練と形容する。
早熟で老練なのは著書ばかりではない。その経歴もまた同じである。
「私の世代は歴史の激動期に育ち、動乱の時代を経験したため、焦慮とか不安を敏感に感じ、人生への見方も自然と早熟を強いられたのです」と語る。
1937年生れの白先勇は、子供時代を戦乱と疎開避難で過ごした。8年にわたる抗日戦争が終わると、国共内戦が始まり「常に戦争と避難、破壊と破滅が続いていましたが、それでも人間性の強靭な一面を見ることもありました」と語る。
「そういったすべてを目の当りにしてきたのです。幼かったものの、父の世代が味わった苦痛、悲哀、無念さを小さい頃から理解してきました」と語る。
早熟で多感な彼の性格は、幼年時代の時代環境が影響するが、また病を得て独居を強いられたことも関係している。
10人兄弟の8番目と大家族ではあったが、8歳で結核を患い、5年に渡って隔離され孤独に過ごした。ただ一人、家で歴史漫画をみるしかなかったのだが、講談好きの料理人がそんな生活の唯一の友となった。古典小説の『七侠五義』『薜仁貴の東征』などを料理人は講談師のよう次々にに語ってくれ、「私は小さな腰掛に座って、鍋や食器を洗いながら語る料理人の話を聞いていました」と思い起こす。
白先勇に最初に小説を手ほどきしたのは、家の料理人であったともいえる。「小説も説書(中国の講談)の伝統を受け継ぎ、生き生きと面白いものでなければなりません。敏感に興味をもって人を観察し、言葉に耳を傾ける必要があります」と白先勇は言う。
永遠の尹雪豔
文壇に鮮烈なデビューを飾ったが、若い頃の作品はまだ未熟だったと認め、『台北人』(1971年)になってようやく成熟した作品と言えるだろうという。それでは代表作はと聞くと、強いてあげれば大きな歴史の変遷と失われた愛の深さを描いた『遊園驚夢』と答えた。
獅子座生れの白先勇は大胆な一面があるが、その一方で著作や脚本などには細部にまでこだわり、一点も疎かにしない。
作品は次々に映画化、ドラマ化され、舞台や舞踊劇など様々な形式で表現されてきたが、その大部分について、原作者本人が常に細かくチェックしているのである。
去年舞台化され、大評判となった『孽子』においても、細部に至るまで白先勇のチェックが入り、煩がられたと話す。舞台全体において、一分一秒、展開の隅々まで目を離せない。
永遠の若さを保つヒロイン尹雪豔のように、白先勇も若々しい精神を保っている。
「現代の流行にも興味があります」という白先勇は、「宮廷官女チャングムの誓い」や「星から来たあなた」など韓流ドラマも見る。「韓流ドラマの影響力には驚きます。厳格な制作態度で、衣装や撮影に脚本など、特に歴史ドラマは綿密で、成功は偶然ではありません」と讃嘆する。
古典中の古典『紅楼夢』
白先勇は『紅楼夢』の影響を深く受けた作家と言われているが、事実を本人に確かめると笑いながら「否定はできませんね」と言う。
『紅楼夢』は自分のバイブルというほどで、若い頃から読み始め、アメリカのカリフォルニア大学サンタバーバラ校で29年教えていたのも紅楼夢であった。
「これはまさに天の書で、70数歳まで読み続けて、ようやく少しわかってきました」と白先勇は言うが、長年アメリカで教えてきた紅楼夢は、教えるたび、読み返すたびに華やかな字句の背後に潜む滄浪として、透徹した作者の人生哲学に讃嘆するしかない。
教えるという仕事は気に入っていると、白先勇は言う。「別の職業を選べと言われたら、他でもない教職ですね」という。
1994年に教職を辞してからは、再び教鞭をとることはなかった。それが退職後20年経って、縁あって台湾大学に戻り、1年半の間『紅楼夢』を教えることになった。
白先勇にとって、紅楼夢は文学の古典中の古典である。「18世紀の乾隆帝時代の大作で、同じ時代の欧米文学には比肩するものがありません。19世紀になって西洋文学は百花斉放期を迎えて、数多くの名作が生まれました。しかし、仏教、道教、儒教思想を背景に、美しい表現をちりばめた文章技巧と、数多くの人物がまた生き生きと描かれている紅楼夢のような傑作は、西洋文学には生まれませんでした」と言う。
「紅楼夢は、多くのディテールのピースで構成された大きなジグソーパズルなのです。どの一節どの一段も美しく、しかも人物表現の深さには敬服するしかなく、一筆で人物が生きてきます」と言う。
崑曲の楽しみ
紅楼夢は中国文学の美の極致といえるが、舞台芸術の集大成は崑曲にあると言えよう。
「この一生、崑曲とは切っても切れない縁を結んでいます」と、白先勇は言う。子供の頃、上海で梅蘭芳と兪振飛の「遊園驚夢」を目にしてから、崑曲に深く惹かれてしまった。
教職を退いてからの10数年の間、その崑曲の復興に力を注いできた。西洋のオペラは歌うが踊らないし、バレーは踊りだけで歌はない。崑曲だけが歌いながら踊り、踊りと歌が結びつき、二つの芸術を天衣無縫に融合していると、白先勇は崑曲への情熱を語る。2001年には、ユネスコから「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言されたのである。
崑曲を歌えないというのが一生の遺憾事と思っていたが、白先勇は60歳を過ぎてから老役者に「今からでも学べますか」と尋ねた。老役者は「ちょっと遅すぎるでしょう」と答えた。崑曲を習うことは諦めたが、それでも崑曲復興の夢は諦めなかった。
2003年4月に、白先勇の呼びかけで中国大陸と台湾、香港の連合チームが結成され、1年をかけて青春版「牡丹亭」を制作した。16世紀の湯顕祖の古典作品に現代的要素を加え、21世紀の舞台に新たな光芒を放つ作品となった。
2004年4月29日に、この青春版「牡丹亭」が台北の国家劇場で世界に先駆け初演された。その後、白先勇が寄せ集め劇団と謙遜する連合チームは、世界各地で260公演を行い、白先勇自身も150公演に付き添った。中でも、四川大学と武漢大学の公演では数千人の観客を集めた。
「9時間に及ぶ大舞台は、多くの人の心を掴みました。現在の大学には伝統文化の課程が少なすぎます。崑曲は音楽、舞踊、美術、文学を結び付けた総合芸術で、文化の啓蒙課程の意義を有します」と、崑曲を大学で紹介する意味を語る。
白先勇が崑曲を大学で公演したことから、台湾大学、北京大学、香港中文大学に崑曲センターが設立され、崑曲課程の開設で、少なからぬ学生観客を育てることになった。
舞台は終っても、芝居は続く。白先勇が先鞭をつけた崑曲復興の道は、今度は劇団や観客が育てていかなければならないと、彼は言う。
人の子白先勇、父のため歴史を復元
ここ数年、白先勇は人の子としての行動を主軸とし、父である白崇禧の伝記に力を注ぎ、二二八事件当時の父の行動と、その後への影響の掘り起こしに務めている。
2012年にまず『父と民国、白崇禧将軍の肖像』を出版し、世界の華人圏及び欧米の漢学界に大きな反響を呼んだ。2014年にはまた『止痛療傷、白崇禧将軍と二二八』を出版し、父の台湾における資料、口述筆記や取材事項などを整理した。この書は『関鍵16天(鍵となる16日)』の書名で中国大陸でも出版され、北京、上海、南京での出版発表会において空前の熱気を呼んだ。このために中国大陸の10都市を講演して回り、「公的な文献では軽く触れられるだけの歴史を、彼らは熱意をもって知ろうとしています。私も父の足跡を追って、一回りしてきました」と語る。
歴史の真相を知ることが重要だと白先勇は言うが、台湾にとって重要な意味を持つこの歴史の一段に空白があってはならないのである。白崇禧将軍が命を受けて台湾に到着した後の16日間は、確かにその鍵となる時期であった。死刑判決を受けた政治犯の多くが、白将軍の「勝手な死刑禁止、公開審理」の命令により、辛うじて命を助けられたのである。
猛暑の6月に、白先勇は『止痛療傷、白崇禧将軍と二二八』の宣伝のために走り回り、マスメディアの取材に応じていた。
「これほど重要な事件は、掘り起こされ語られるべきです。父に対する認識が浅かったし、その意義を深く追求してきませんでした」と、歴史の真相を探り、父・白崇禧を再認識したと語る。
人の子としての追求はこれからも続き、父の歴史について機会を見つけて記録していきたいと、白先勇は言葉をつづけた。
庭園に花開く夏
旋風のごとき忙しい日々を過ごしてから、6月末に白先勇はアメリカの自宅に戻り引き籠った。
「台湾はすべて素晴らしく、台北は夏以外は居住に適しているのですが」と語る通り、台北は住み慣れて安心できる場所で、友人も多いのだが、「戻ってくると忙しすぎて、アメリカでのんびりしたくなります。庭一面の花の世話も必要だし、本や映画も見たいし、著作依頼も溜まっています」。アメリカに戻ると、白先勇は世間と隔絶した生活を送り、1週間も一言も話さないこともあるという。
群れから離れた独居生活で、生活のすべてを自分で執り行わなければならない。料理の腕と言うと「料理一席をすべて作れます。以前は友人を招いたものですが今は面倒で、得意料理の麻油鶏もずいぶん作っていません」と言う。
世の中と隔絶した生活は、著述に向いている。「著述こそ自分の仕事で、読者にはまだ話したいことがたくさんあるのです」と言う。その著作はまず人物があり、それからストーリーが続く。しかも、昔ながらの600字の原稿用紙に黒の羽根ペンを使う。コンピュータは、うっかり書いたものを消してしまいそうで怖いのである。
夜更かしの彼は、夜10時過ぎに仕事を始める。あれこれ迷いながら書くので、時には一字も書けないこともある。いま何を書いているか聞いてみると、質問にはなんでも答えてくれるのに、こればかりは書き上げてから見てください、と答えてくれなかった。
永遠の「孽子」
次の作品が何か、気になるところである。
17歳の時、建国高校で一生の親友王国祥と知り合い、1992年に彼が病死するまで、38年の長きにわたり親交があった。
2015年6月にアメリカの連邦最高裁が同性婚を認める判断を下し、世界各国で同性婚が取り上げられたが、白先勇は1983年に『孽子(ニエズ)』を書いていたのである。
「同性愛は人間性の一部であり、取り上げる価値があります。『孽子』を書いていた時には、世間からどのような批判や圧力を受けるか、全く考えていませんでした。作家として、自分の言いたいことを恐れず書くべきですし、百パーセントの誠意をもって自身の信念を守らなければなりません」と言う。
この本が出版されると影響は広く大きく及び、禁書になることもなく、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、日本語などの各国語版が世界各国で出版された。白先勇によると現在ベトナム語版を翻訳中で、エチオピアからも版権交渉が来ているという。
白先勇の『孽子』を、悲哀の情を煌びやかな歌劇に作り上げたと称賛する人もいる。次作が華やかな悲歌であるのか、それとも将来を予言する箴言であるのか、白先勇の作品に期待が集まる。
50年前も期待を集めたが、半世紀後の今もまた同じである。
デビュー当初から老練を感じさせたが、白先勇自身は1971年の『台北人』以降、ようやく作品が成熟したと感じている。(爾雅出版社提供)
白先勇は『紅楼夢』こそ唯一無二の古典と称え、特に華やかさの奥にある寂寥感が素晴らしいという。写真は雲門舞集の舞台「紅楼夢」。(劉振祥撮影)
1983年の『孽子』は台湾の同性愛文学の始祖である。(允晨文化公司提供)
小説発表から30年後、『孽子』は舞台に再現された。「深い深い闇の中で、行く当てもなく街をさまよう子供たちに捧げたい」と白先勇は語っている。(許培鴻撮影)
1943年、桂林の自宅での家族写真。前列の一番左が8番目の子、白先勇。(時報出版社提供)
1963年、渡米する白先勇を父の白崇禧が見送った。松山空港での貴重な一枚。(時報出版社提供)
白先勇は「遊園驚夢」で初めて崑曲の美に触れ、心を奪われた。(許培鴻撮影)
青春版『牡丹亭』で白先勇は崑曲復興の夢をかなえた。写真は2005年のカーテンコール。(許培鴻撮影)