客家伯公の御加護
内湾線の竹東駅から横山駅まで行くと、車窓の風景は市街地から霧に包まれた山地へと変わり、1980年代の産業の一大拠点へと入る。
「内湾線が運んだ貨物の変化は、台湾産業史の変遷を象徴しています」と話すのは、青年創生基地横山喜事プロジェクトマネージャーの陳致中だ。内湾線が完成する以前のこの地域の主要産業は、最少の樟脳と茶葉から始まり、続いて林業、炭鉱、セメント、そして現在は観光産業へと変ってきた。「多くの観光客は内湾駅付近の古い町並みを訪れますが、横山駅では客家の人々の実際の暮らしに触れることができます」と陳致中は説明する。内湾線は横山郷全体を通るが、観光客が集まるのは内湾村で、横山村には地元の人々のための生活機能が揃っている。
横山駅で下車し、駅前通りを行くと「八卦巷」がある。開拓時代、客家の先人たちは土地をめぐって原住民族と争っていたため、この集落の家屋は八卦の配置図のよう建てられた。これによって侵入した外敵は方向が分からなくなり、出ていけなくなるのである。「八卦巷の中では、門に貼られた番地は奇数と偶数が同じ側にあるので、新しい郵便配達員は、ベテランの人に幾度も同行してもらわないと、届けたい家にたどり着けないのです」と陳致中は笑う。
八卦巷から遠くを望むと一つの山が見える。「竹東からこの方向を望むと、大きな山の背後に南北に走る山脈が横たわっているので、客家の先人たちはこの地域を『横山』と呼ぶようになりました」と陳致中は言う。彼は遠からぬ山を指差し、先人は山の中腹に隘寮という小屋を建て、原住民族が山を下りて攻撃してくるのを見たら、狼煙を上げて麓に伝えていたという。現在の横山小学校の横には樹齢300年のクスノキがあるが、ここが狼煙を見るための絶好の場所だった。かつては子供たちが木に登り、山からの警報を見ていたのである。この木と客家の土地神様である「伯公廟」が結びつき、「伯公樹」とも呼ばれる。
横山村にはさまざまな「伯公廟」がある。田んぼの傍らには三つの石を簡単に積んだだけの「田頭伯公」廟があり、池の傍らには壺のような形の門がある「放牛伯公」廟がある。昔の人が牛の放牧中に休憩したくなると、牛を池の傍らにつないで伯公に牛を見張ってもらいながら休んだことからこの名がついたという。牛がいなくなった時は、放牛伯公に祈りを捧げると、まもなく見つけることができたそうだ。そのため、住民たちは今でも放牛伯公に手を合わせる。
伯公は1950~80年代には炭鉱でも信仰されていた。「客家の先人は、山林は伯公が見守っていると考えていたため、鉱山でも大切にされていたのです」と話すのは客家伝播基金会董事長の陳板だ。彼は以前、国家文芸フェスティバルの「内湾線の物語」のためにフィールドワークを行なった時、客家人の冒険の精神が印象に残ったという。「当時、炭坑の前には一人ひとりの名札がかかっていて、中に入る時に名札を持っていき、出てくると名札をもとに戻しました。これを見れば、無事に出てきたことがわかるのです」
横山村にある「放牛伯公廟」。壺のような形の門は平安を象徴している。