1980年代、台湾ドルが大幅に値上がりし、台湾の産業は大規模な海外移転を開始した。ちょうど東南アジア各国で経済改革が始まって投資が開放された時期と重なり、マレーシアやタイが、台湾企業の最初の進出先となった。
経済部国際貿易局は1989年を「対東南アジア貿易拡大行動年」とし、「光華」もマレーシア、タイ、フィリピンなどの投資環境とリスクを取り上げて分析した。
ウィンウィンの関係
1990年、政府が中国大陸への間接投資と貿易を開放すると、台湾企業による対大陸投資が急増し、我が国の対外投資の半分を占めるまでになった。この依存度を下げるため、1993年に経済部は「対東南アジア地区経済貿易投資綱領」を発表して「南向政策」を打ち出し、台湾企業に東南アジアへの投資を奨励した。
しかし、企業は利益を志向するものであり、政府が積極的に方向を定めても、カギとなるのは企業の意向である。
台湾企業の力がいかに大きいかを見てみよう。1991年、インドネシアでは台湾企業による投資額が10億米ドルを超え、同年5月、中国語の使用を禁止しているインドネシアで、教育当局は中国語学校の設立を許可し、わずか3カ月でジャカルタに台北学校が設立されたのである。
1994年、「光華」は南向政策の三大重点エリアの一つであるインドネシアのバタム島を取材した。地理的には有利な位置にあるが、人件費が高く、労働者が不足しており、中継地としての発展には困難が伴うという報道だった。
一方、友好国が集中する中南米は多くの人にとっては遥かに遠い大陸だが、台湾企業にとっては潜在力のある処女地でもある。
1997年、「光華」はパナマ運河に面したデービス輸出加工区を訪れ、言葉の通じないこの地域で台湾企業がいかに努力し、ウィンウィンを追求しているかを報道した。
外交の最前線
海外へ出て行く台湾企業にとって、外交は重要な後ろ盾である。外交関係の発展により、台湾企業は太平洋のマーシャルやパラオなどにも進出し、養殖や漁業で道を開いてきた。
しかし、投資先との友好関係に変化が生じると、台湾企業も大きな影響を受ける。
かつて我が国との往来が密接だった南アフリカは、投資条件が良く、政府の奨励策もあって、1980年代から90年初めにかけて約200社、2万人が進出していた。
ところが1998年、我が国と南アフリカは国交を断絶し、それとともに中国大陸から廉価な商品が大量にアフリカに流れ込んだ。さらに治安も悪化し、多くの台湾企業が危険を感じて撤退を考え始めた。2000年、「光華」の記者は南アフリカを実地に取材し、撤退か経営継続かに悩む台湾企業の姿を報道した。
南か、西か?
「南へ向かえと言われて来たが、振り返ると誰もが西へ向かっていた」――これはタイに進出した台湾企業の2001年の笑い話だが、この言葉は、政府の奨励策も市場の変化にはかなわないことを示している。
2001年、「光華」は再びタイとフィリピンのスービック湾、それにベトナムを訪れ、アジア通貨危機以降の企業存続の道を探った。
南へ向かうか、西へ向かうかという選択だけではない。アメリカではサンフランシスコの東からサンノゼにかけて、いわゆるシリコンバレーのベイエリア一帯で、IT王国を左右する力を持つ多くの華人が懸命に働いていた。
2006年、「光華」はシリコンバレーを取材に訪れ、現地で活躍するベンチャー・キャピタルや起業家、技術者などにインタビューした。そこからは、シリコンバレーにおいて華人がいかに重要な位置を占めているかが読み取れる。
2010年、「ASEANプラス1」が形成され、台湾企業にとって東南アジアでの布陣が重要な課題となった。「光華」は近年、海外取材の重点を近隣のベトナムやタイ、ミャンマー、インドネシアなどにおいている。
東南アジアの台湾企業は、地の利と比較的安価な労働力や土地、原材料を活かし、また現地の関税優遇策や産業政策を利用しつつ新興市場を開拓し、リスクを分散している。いずれも己の強みを活かし、東南アジア市場が統合されるチャンスをつかむためである。世界で活躍する台湾企業を「光華」は常に見守ってきたのである。
(左)従業員1600名を擁する達新工業ミャンマー工場。
(下)徳隆紡織の南アフリカ工場はすでに全面的に自動化されている。
ベトナムのサイゴン川の河畔では台湾の味丹企業の看板が目を引く。
(左)90年代、台湾政府は東南アジアへの投資を奨励した。写真は台湾企業のインドネシア工場。
(右)1997年、メキシコシティの高級ショッピング街に出店したAcer。