日本の保護政策を打破
荘建模は革新戦略によって、多くの企業が成功しない日本市場への進出を果たした。
早くから日本市場に目を付けていた荘によると、日本は米食大国で、ご飯の他にせんべいや餅など、さまざまな米菓子があり、いずれももち米粉を必要とする。
だが、国内農業を保護するために日本政府は長年にわたってもち米粉の輸入を禁じてきた。日本統治時代の教育を受け、日本語が堪能な荘建模は2年をかけて日本の税関法規を勉強し、1984年にフランス企業が「洋菓子用粉」の名義で日本への小麦粉輸出に成功したのに倣い、もち米粉に砂糖を加えた「米菓子用粉」の輸出に成功した。
「砂糖の粒子はもち米粉の粒子より大きいので、購入したメーカーは、もち米粉と砂糖と容易に分けることができ、もち米粉だけを取り出して使えます」と荘建模は対日輸出成功の秘訣を公表する。現在、バンコクスターチから日本へのもち米粉輸出量は月500トンを超える。
1998年、70歳近くなった荘建模はその革新を止めることはなく、市場を驚かせる「米澱粉」を開発した。
その話によると、従来の澱粉は小麦やトウモロコシ、キャッサバ、ジャガイモなどを原料としているが、中でもキャッサバ澱粉は消化が悪いという欠点があった。そこで長年の研究の末、彼は米100%で消化が良くカロリーの低い米澱粉の開発に成功したのである。
水を加えて糊状にした米澱粉はクリームのように柔らかく滑らかで、まるで脂肪分が入っているように感じられるが、カロリーは高くないため脂肪の代替品になる。低脂肪アイスクリームや低脂肪ヨーグルト、低脂肪ポテトチップスなどの原料として米澱粉が用いられている。
フレキシブルな経営戦略
米澱粉の製造工程は複雑だ。米を水に浸し、挽き、遠心分離機にかけ、幾度も洗って乾燥させ、徹底的に米のタンパク質を取り除かなければならない。
2011年にタイが洪水に見舞われた時、荘建模は数百トン分の「米の土嚢」で浸水を防いだ。大変な損失だと思うかもしれないが、実は水に浸かった米もすぐに生産ラインに入れ、複雑な工程を経れば利用できるのである。また工場の数百人の従業員はみな宿舎に住んでいるため、洪水の最中も通勤に困ることはなく、生産ラインを止める必要はなかった。
明快な対応で工場の損失を最小限に抑えたことからも、彼の実行力とフレキシブルな手腕がうかがえる。
40余年にわたるビジネスの経験から荘建模は「新鮮な感覚を保ち続け、決して欲を出さない」という経営哲学を生み出してきた。例えば顧客から100トンという大量の注文が入っても「それだけの商品はないから」と80トンしか受けない。これによって顧客は商品が簡単には手に入らない貴重なものと感じ、値引きを要求することもなくなるのである。
だが、原料価格が下がる前には、顧客に、注文を先送りすれば安くなると通知する。「商売は長いお付き合いですから、決して欲を出してはいけません。安定的に最良の製品を最も合理的な価格で提供していけば、商売は自ずとうまくいくものです」と誠意を込めて語る。
負けたくない
今日、バンコクスターチはタイでは広く名の知れた大企業であり、毎月4000トンの良質の澱粉を生産している。欧米や日本などの先進国への輸出が75%以上を占め、その他は台湾や中国大陸、タイ国内などへ販売されている。
自分のルーツを忘れない荘建模は功成り名を遂げた後、すべての兄弟を呼び寄せて経営成果を分かち合っている。現在その関連企業は、バンコクスターチとタイ・フード・ファクトリーの他に電機、製紙、陶磁器、建築など多岐にわたり、年間売上は100億バーツを超える。
老いてますます元気な荘建模は、今も毎朝8時に出勤し、退職など考えたことはない。思考も明晰で、やる気も若者に少しも劣らない。これまでの事業を振り返り、シンガポールのベストセラー『怕輸(負けたくない)』を紹介してくれた。
「負けたくないと思うと、戦々兢々として注意深くなり、上を目指すしかなくなります」と荘建模は説明する。人口が少ないシンガポールは、この精神があればこそ、政治、経済、金融、環境など各方面で世界に誇る実績を上げてきた。「ビジネスも同じで、負けたくないからこそ革新を続けるのです」
荘建模は常に「No body can do, I can」と考える。他人にできないことをやれば、そこに広い世界が広がる。その姿勢と実績は、この言葉を体現しているのではないだろうか。