寿山のさまざまな林相
時代が進むにつれ、寿山の名称だけでなく、林相も変化し、はげ山も緑濃い山に変わった。日本統治時代、当局は水源と森林の水を確保するために寿山と旗後山に台湾初の保安林を設けた。市民による伐採を禁じ、ソウシジュやガジュマル、モクマオウなど成長の速い樹木を選んで造林した。また1925年には日本で「公園の父」と称えられる本多静六を招いて「寿山記念公園」の計画を依頼し、南寿山には、花をつける多くの観賞用樹木が植えられた。
1937年になると日中戦争が始まり、高雄に要塞司令部が置かれた。寿山は高みから万丹港(現在の左営軍港)と高雄港が見下ろせるため、軍事管制区とされ、それまでの寿山公園計画も立ち消えとなった。
黄雅婷によると、現在は寿山の林相はさらに大きく変化している。北寿山は軍事管制区となったために原生の樹木が多く残り、生物多様性も高い。中寿山はギンネムの純林が中心だ。南寿山は日本統治時代に広く植林されたので、本来の生態はあまり残っておらず、生物多様性は低い。そのため彼女は、北寿山から入れば豊かな生態を観察することができるとアドバイスする。
世界における台湾の植物
北寿山登山道の前には龍巌洌泉があり、雨季には豊富な水が湧き出す。黄雅婷によると、雨水が山のサンゴ礁に浸み込み、それが水を通さない地層にぶつかって湧き出してくるのだそうだ。
北寿山の登山道を登っていくと、すぐにタイワンザルが遊んでいるのに出くわす。黄雅婷は、サルと人間には人畜共通感染症があるので、餌をあげたり触ったりしないよう注意を促す。子ザルがとびかかってきたら、慌てて叫んだりせず、ゆっくりと木の横にしゃがめば、子ザルは木に登っていくという。
タイワンザルは、かつてイギリス領事だったスウィンホーがその標本を大英博物館に送り、台湾固有種であることが確認された。また、寿山でよく見られる恒春山薬(ヤマノイモ科のDioscorea doryphora)や山猪枷(イチジク属のFicus tinctoria)は王立植物園キュー‧ガーデンに送られた。スウィンホーは台湾各地で200種余りの植物、200種余りの鳥類、400種余りの昆虫やカタツムリ、貝類などを採集し、海外における台湾の自然史研究の扉を開いた。
同じくイギリス人のオーガスティン‧ヘンリーは、打狗で税関の医師を務めていた時に寿山で94種の植物を採集した。その中には、開花期が非常に短く、採集が難しい台湾魔芋(サトイモ科のAmorphophallus Henryi)もあり、彼が命名した。4~5月には花が臭いにおいを出し、虫や蠅が集まってきて受粉を助ける植物だ。黄雅婷によると、同じく台湾固有種の密毛魔芋(サトイモ科のAmorphophallus hirtus)は寿山では高さ280センチまで伸びるが、毎年花をつけるわけではないという。
北寿山の登山道は時空を行く道のようであり、黄雅婷がさまざまな植物や各時代の物語を話してくれる。清の時代からあるガジュマルの木は盛んに気根を伸ばしており、寿山では優勢な植物である。下へと真っ直ぐに伸びる気根は、地面まで伸びると支柱根となり、その先端から酸を分泌するので分厚い石灰岩の中に根を張ることができる。こうして自らの範囲を広げていくため「歩く木」とも呼ばれる。また、西洋の博物学者チャールズ‧ウィルフォードが採集した恒春厚殻樹(チシャノキ属のEhretia resinosa)は、かつて薪として使われた。空を覆うよう高く伸びる刺竹(シチク)は打狗という地名の由来ともなった。かつてマカタオ族は、この竹で垣根を作り、海賊の侵入を防いだという。寿山が自然公園に指定されてからは、貴重な自然資源を守るために、植物を採ることは一切禁じられている。
(左)イギリス領事官と同官邸は哨船頭地区にあり、山の上の官邸からは台湾一の港湾である高雄港を見渡すことができる。