古い門から始まった澎湖への思い
朱雲瑋の家は新北市の鶯歌区にある。屏東農業専科学校在学中にバードウォッチングクラブに入り、以来、鳥とその観察を大切な趣味としてきた。中山大学海洋学大学院に入った時は海鳥の分類を研究したいと思っていたのだが、指導教授の提案で魚類の研究に携わるようになり、そこから海洋生態の世界へ入っていった。
修士コースを修了した後、台湾大学動物学大学院の博士課程に進んで学位を取り、海洋生態調査の委託を受けるようになる。こうして台湾本島と離島の各地の海や陸で生態研究に携わるようになり、高雄に海生科技公司を設立する。海洋環境や生態の観測の仕事をしながら、複数の大学で兼任講師を務めてきた。
一方、長栄大学生物科技学科出身の29歳の鄧佩貞は学生時代、他の多くの学生と同様、大学に入ってから学科名の本当の意味を知る。当時、学科の教員の大部分が医学を専門としていたのに対し、朱雲瑋の受け持つ生態教養課程に興味を持ち、4年間続けて受講した。
新竹出身の彼女は、大学4年の時に朱雲瑋に招かれて海生科技公司で働き始める。社長を合わせて5人だけの会社なので、調査実施となると全員が出動する。大学の専攻とは異なる内容の仕事だが、鄧佩貞は澎湖での調査を通して知識を蓄積し、卒業後は正式に同社に就職した。
仕事の関係で朱雲瑋は台湾本島と離島の間を行き来しており、澎湖は重要な拠点でもあった。そこで4年前、彼は業務のために鄧佩貞を澎湖に派遣して馬公市内にオフィスを構えることにし、政府の調査案件を落札しようと考えた。
「調査依頼1件で年に100万元余りになるので、事務所の家賃と1人分の給料は支払える」と朱雲瑋は楽観的に考え、まだ入札の段階で家賃3000元の家を5年契約で借りることにした。
だが翌年、彼らはこの仕事を落札できなかった。朱雲瑋はそのことは気にしなかったが、借りてしまった家を放置するわけにもいかず、鄧佩貞と話し合い、生態をテーマとした展示空間「鶵鳥」を開き、鄧が店長を務めることにした。
「鶵鳥」運営の方向性を考える過程で、朱雲瑋は自分の「澎湖への思い」を整理することとなった。以前、澎湖との関係は仕事だけに限られていた。彼は生態調査のために十数年にわたって3カ月に一度は澎湖を訪れていたのだが、ある時、「光天化日(天下太平、または白日の下にさらすという意味)」の四文字と出会ったことで、澎湖に特別の感情を抱き始めた。
それは2010年、馬公空港からバイクで市内に向かう途中、古い民家の2枚の門に「光天」「化日」という文字が刻まれているのを目にしたことから始まる。四文字は、普通の門聯のように紙に書いて貼ってあるのではなく、文字は直接門に刻まれていた。
しかも「国泰民安」といった一般的なおめでたい言葉とは違って、洒脱だが違和感もない。彼はこれをカメラに収め、生態調査の傍ら、澎湖の古い門を訪ね歩いてみようと考えた。
そうして澎湖の離島を訪ね歩くうちに、数百の門の写真を3000枚以上撮ることとなった。中には「三多九如」「鳳毛麟趾」「堯天舜日」といった古典から引用された文字もあった。
だが、朱雲瑋が残念に思ったのは、こうした古い門が現地では大切にされておらず、廃墟となって打ち捨てられているものもあることだった。そこで2012年7月に鶵鳥をオープンした時、彼は最初の展覧会として、古い門の写真展を開くことにした。澎湖の人々に、自分たちが宝の山に暮らしていることを知ってもらい、「鶵鳥」にも親しんでもらいたいと考えたのである。
古い門の写真展がスタートとなったが、本格的に鶵鳥の名を知らしめたのは、生態環境と科学知識普及をテーマとした一連の講座である。
13坪の鶵鳥では、聴衆は20人も入れば満員になるが、講座は常に満席である。
朱雲瑋によると、澎湖では公的機関でも民間機関でも有料の講座を開くことはほとんどないが、鶵鳥では頻繁に開催しており、入場料が一人800元という講座にも十数人が集まるという。入場料を合わせても講演者の航空券や宿泊代には足りないが、大きな励みになっている。
成功のカギは、テーマを明確に打ち出し、小衆が関心を寄せている身近な話題を扱うことだ。
例えば昨年、馬公と白沙と西嶼の三つの島に囲まれた澎湖内湾の汚染問題をテーマに学者を招いたところ、20人余りが来場して鶵鳥は超満員になり、入口の敷居にしか座れない人もいたほどだという。
これらの講座を通して、朱雲瑋は本業(生態調査)と副業(鶵鳥)を完全にリンクすることができ、鶵鳥はさらに進化することとなる。
鶵鳥では澎湖に関心を寄せる人々を「鳥報」の編集や執筆に招き、澎湖の暮らしのあれこれを分かち合っている。