虚弱な少年の出会い
熊衛と太極との出会いをさかのぼれば「禍福相倚」という道家の哲理そのものかと思われる物語だ。幼いころ身体が弱く、一度は生死の境をさまよった。そうした経緯がなければ、これほど強い意志で鍛錬に取り組むこともなかっただろう(107ページの記事を参照)。
熊衛の話によると、1960年に李寿籛;先生に楊家太極拳を習い始めた時、体力がなかったために疲れを感じ、しかも「つまらなくて、幾度もやめようと思った」と言う。だが幸い、当時80代だった李先生は彼を励まし続け、毎日彼に拳経の哲理を語り聞かせた。熊衛は少しずつ理解を深め、体質も改善していき、ようやく本気で取り組むことにしたのである。
太極拳を学び始めて3年後、熊衛が散歩をしている時に、スピードを出していた救急車に衝突された。目の前が真っ暗になって気を失い、病院に運ばれると脳震盪と診断され、手術が必要だとされた。だが、医師が2回目の脊髄検査をしている時、熊衛は奇跡的に意識を取り戻し、数日後には退院して医者を大いに驚かせた。
「おそらく『鬆』の字が私を救ってくれたのだと思います」と熊衛は言う。救急車にぶつかって弾き飛ばされた時、彼は本能的に全身の力を抜き、抵抗しようと力を入れることがなかったため、リバウンドの力も少なかった。強い衝撃ではあったが、命には影響しなかったのである。
この李寿籛;先生に師事するだけでなく、あちこちで他の先生にも教えを請うた。周増霖先生には郝;派の太極拳を習い、王晋譲先生には陳家太極拳を学んだ。当時、各流派の対立は激しく、師や門に背くことは許されず、熊衛はしばしば厳しく叱責された。
ある時、周先生からは「楊派の悠長な太極拳のどこがいいんだ。そんなものを習うなら私に師事する必要はない」「三民主義を信奉するなら共産主義に反対しなければならない」と言われた。熊衛は「己を知り、敵を知れば百戦危うからず」の道理を持ち出し、「三民主義を信奉するなら、なおのこと共産主義を『研究』しなければ」と説明したが、先生の怒りは収まらず、熊衛は先生の下を去った。ところが思いがけないことに、3ヶ月後に先生がわざわざ高雄まで訪ねて来てくれ、熊衛は驚き、感激した。
先生がなぜ見直してくれたのか、彼に武術の才能があると思ったのか、熊衛には分からない。ただ、自分は「人に好かれる性質だ」と言う。仲間同士で「推手」の練習をする時も、彼はいつも進んで損な役を引き受けて倒される側になるし、相手の弱点も指摘する。先生は月謝も取らずに教えてくれたし、軍の部隊でも少しずつ知られるようになり、多くの人が彼に学びたいと集まってきた。
太極拳にはゆったりした柔らかな動きしかないが、敵を前にした時には、身体の各所から幾重もの力が発せられる。写真は熊衛が「扣手」を用いて弟子を倒すところ。