ユニバースの精神を
北京大学を卒業した傅斯年は、英国とドイツに留学したことがあり、30歳過ぎで中央研究院歴史言語研究所を創設し、陳寅格、趙元任、李済といったトップクラスの学者を下に置いた。彼は学術は象牙の塔から抜け出して、史料を発見し検証しなければならないと主張した。
50歳を過ぎて台湾大学の代理学長に就任した傅は、その深い思想と事務能力の他に政治批評でも知られていた。抗日戦争の勝利に全国民が歓喜している時、彼は「世紀評論」誌に「かくなる宋子文は下野せざるを得まい」という文章を寄せ、権勢に反旗を翻した。この文章は各地の新聞雑誌に転載され、当時行政院長だった宋子文に大きな圧力となり、宋は間もなく辞任した。
1949年に傅斯年が到着したばかりの台湾大学は荒廃からの再興を必要としていたが、そうした中で「四六事件」が発生した。台湾大学と師範学院の学生が自転車に二人乗りしていて取締まりを受けたが、それに服さなかったため、警官が学生を殴打して拘留した。この事件が次第に大きくなり、数日後に当局が軍と警察を出動して鎮圧にかかった。
傅斯年は、当局が何の法的手続きも踏まずに大学構内に入って学生を逮捕することに不服だった。そこで自ら国民党の最高当局を訪ねて交渉し、確かな証拠がないまま逮捕しないこと、証拠がある場合も、台湾大学の教員や学生を逮捕する時は学長の許可を得ることを求めた。さらに彼は警備総司令部の彭孟緝に対して「もし学生が血を流したら、ただではおかない」と強く迫った。
この後の11月、傅斯年は台湾大学の創立記念式典を行ない、祝辞を述べた。「日本時代、この大学には特殊な目的がありました。植民政策に協力し、南進政策の道具となることです。我々が接収してからは、純粋に大学のための大学にしていきます。いかなる政策とも関係なく、大学を学術以外の目的や道具とすることはさせません」と。そして真理を追求するというスピノザの理念を引いて「この大学にユニバースの精神をもたらそう」と呼びかけた。
「私は胡適より敏腕だ」
混乱の時代に学長に就任した傅斯年の主要な任務は台湾大学を生まれ変わらせることだった。当時は大陸各地の大学生が国民政府とともに台湾に移ってきたため、台湾大学の学生数は数百人から3000人まで激増し、教室も宿舎も足りなかった。そこで傅は、図書や設備を購入し、教室や宿舎を増設し、教授を招聘し、付属病院を改革するなどして、大学を一新させていった。
文学部の居万里教授は、学生募集に対する傅斯年の真剣さを次のように指摘している。紹介があって無試験で入学させるようなことは決してなく、入試の出題や問題用紙の印刷も極めて慎重だった。印刷場のドアや窓は塵も通らないよう封じられ、室外には見張りの警官が立ち、まるで「大敵に臨む」ようだった。居万里教授は、このような「臨時監獄で3夜を過ごした」という。
読書人だった傅斯年は読書人を敬愛しており、学界における豊富な人脈を通して各界の大家を台湾大学に招いた。国学の大学者である労幹、董作賓、英千里、陶クカキ「も、傅の熱心な招きで台湾に渡り、儒学の伝統をここに残した。逆に資格に満たない者は、いかなる有力者の推薦があろうと受け入れなかった。こうして厳格な教員採用制度を確立し、台湾大学教員の地位も向上した。
その改革へ積極的な取り組みにより、校務は大きく発展した。最高当局との関係を大学のために生かしたことも称えられている。
傅斯年は資金を求めて陽明山に故蒋介石総統を訪ねるたびに、成果を満載して帰ったと言われており、胡適に言及した時には「胡適は私より偉大だが、私は胡適より敏腕だ」と語ったという。
傅鐘は21回鳴る
1950年5月20日の午後、傅は台湾大学の予算を管轄する省議会に出席した。そこで、ある議員が台湾大学に対して、教育部が大陸から運んできて台湾大学に保管してあった教育機材が盗まれたことや、台湾大学の学生募集の問題などを質問した。剛直な傅斯年は、一時的に興奮しすぎ、突発性の脳溢血を起こして病院に運ばれ、その日の夜、55歳で逝去した。
傅斯年は台湾大学構内に埋葬され、ギリシア式の記念亭が建てられた。この静かな墓苑は「傅園」と呼ばれている。後に事務棟の正面に「傅鐘」が設けられ、以来、授業の始まりと終わりに21回ずつ鐘が鳴らされるようになった。傅はかつて「1日は21時間しかない。残りの3時間は沈思するためにある」と語っていた。
半世紀が過ぎ、傅斯年は台湾大学の歴史的遺産となったが、その人への思いは大学内の空間に反映されている。傅園、傅鐘、そして椰林大道とツツジの花は、台湾社会において学問の自由を象徴するイメージの一部となっている。
学長としてのわずか1年余りの間に傅斯年は誰にも勝る気骨をもって台湾大学に神話を残した。その精神は今も受け継がれている。