海の子として
酷暑の6月末、シャマン・ラポガン夫妻は蘭嶼から台北へ飛び、3人の子供の引越しを手伝った。一男二女は、それぞれ18歳、16歳、14歳の思春期で、学業のために台北に出ている。
たくましく日焼けしたシャマン・ラポガンさんは、ごみごみした都会のアパートには似合わず、やはり蘭嶼の大海原の人だと感じさせる。蘭嶼の話をすると、最近カヌーを完成させたばかりだという。蘭嶼の人にとって、カヌーはなくてはならない道具であり、彼にとっては父親への思いの象徴でもある。
シャマン・ラポガンさんの両親は昨年相次いで亡くなった。父の思い出と言えば、75歳になっても切り立った崖でカニを捕り、77歳になっても海に出て夜明けまでトビウオ漁をしていたことだという。「父は一年のうち5ヶ月以上を海で過ごしていました。大自然と一体だったのです」と言う。父親は自分が生きる環境への愛と尊敬を行動で示し、新しい家や船が完成すると、口から自然にたくさんの歌が出てきた。その自然に磨かれた気質をシャマン・ラポガンさんは尊敬していた。
蘭嶼から初めて先住民優先枠ではなく実力で大学に合格した彼は、有名な作家で『八代湾の神話』『冷海情深』『黒い翼』『浪の記憶』などを出版してきた。昨年、清華大学人類学研究所を卒業し、島では最も学歴が高いが、島の人々は、彼が本を出したとか大学院を出たということは気にしない。島では魚を仕留め、船を造り、海に潜る力があることが男の基準なのである。
タオ族文化の影響からか、シャマン・ラポガンさんは「職業」や「金儲け」にはあまり適応できず、一つの空間で働き続けることができないと言う。やはり集落の海や山で身体を動かし、時々文章を書くのがいい。「真実の生活の中でこそ真実の文章が書けるのです」と言う。
ただ3人の子を持つ父親として、妻は「シャマンの責任を果たしていない。収入がなくてどうやって子供を育てるの」と不満を口にする。
新旧の板ばさみ
古い世代と新しい世代の間で、タオ族の父親たちは困惑する。
彼の親の世代は、子供には子供の考えと運命があると考え、あまり構わず、子供が悪くならなければ親の務めを果たしたと考えた。「父は金のために働いたことはありません」と言う。貨幣経済が島に入ってきたのは十数年前のことに過ぎないが、今では「稼ぎが悪い」ことがタオ族の父親の劣等感になっている。
新旧の間で、自分が書く民族の物語は貴重な無形遺産だが、現実の生活では、金を稼ぐというシャマンの役割を充分に果たせないことが、辛く寂しい。
7月、基隆海事学校2年生の息子が船で日本へ行けるといって興奮している。だがシャマン・ラポガンさんから見ると、息子にとっての船と海は、自分にとってのそれとは大きく隔たっているように感じる。
子に何を期待するか、蘭嶼に戻ってきてほしいかと訊ねると、いつも「タオの男は魚を捕り、船を作る」と言っているシャマン・ラポガンさんは「もちろんです」と答えた。だが傍らの妻はすぐに反論する。「蘭嶼に戻ってきてどうするの。あなたと同じで、稼げないじゃない」と。
シャマン・ラポガンさんは、仕方ないというふうに寂しく笑うしかないのである。