土壌を知れば風土が理解できる
「生物も土壌生成に重要な影響を及ぼします」と許正一は言う。台湾という島は土壌が多様なだけではない。四つの民族がここで暮らしているが、民族ごとに土の利用方法も異なるからだ。例えば漢民族は水田での稲作を持ち込み、桃園には溜池文化がある。
「風土というのは、その地域の気候に育まれて出来上がった文化と習性です」台湾で最も古い土壌は林口台地と見られており、およそ80万年前に形成されたとされる。年代が長いため、土壌中の養分の多くは流出し、赤い酸化鉄しか残っていないため、赤土で酸性に傾いている。「この土壌は、台湾が世界に知られるようになった要因の一つです」と許正一は不思議なことを言う。台湾茶は世界に知られているが、これが土壌と大いに関わっているのである。台湾の有名な赤土の台地と言えば、林口から桃園、新竹に広がっており、いずれも茶葉の産地である。八卦台地には松柏長青茶があり、東部の舞鶴にはアッサム茶、鹿野高台も日本統治時代から茶葉の生産地だった。「茶の木は酸性の土壌を好みます。また台地は地勢がやや高く、霧や雲に覆われることも茶の生長に適しています。このように茶葉と土壌は関連があり、それが台湾を代表する文化になりました」
「土壌を理解すれば、地域の風土や文化を理解することもできます」と許正一は言い、イグサ編みで知られる台中の大甲を例に挙げる。ここの土壌はアルカリ性で乾燥しており、イグサの生長に適している。これを使ったイグサ編みが大甲の名産とされ、かつては台湾の輸出品の第3位だった。また現在、私たちは嘉南平原を台湾の穀倉地帯と呼ぶが、昔はこの地域の土壌は「看天田(お天道様しだい)」と呼ばれていた。土壌のミネラルは豊富だが、天然の水源が不足していたため耕すことが難しく、雨だけが頼りだったのである。このような乾燥した土地では牧草がよく育つため、台南の新営や柳営、林鳳営が酪農の密集地帯となったのである。
それが、日本時代に技師の八田与一が用水路の「嘉南大圳」を開いて豊富な灌漑用水が得られるようになり、ここの土壌の性質は変わり、台湾の穀倉地帯となったのである。「八田与一が改善したかったのは、実は現地の特殊な土壌だったのです」と許正一は言う。
土壌学者の目で世界を見ると、時に別の面白さがある。許正一はテニスの全仏オープンの試合を見ていた時、赤土の少ない温帯地域で赤土のテニスコートを作るには、かなりの資金が必要だろうと考えた。日本は火山岩地形だが、日本統治時代に、台湾を代表して嘉義農林(KANO)が甲子園に出場した時、甲子園の土は火山灰の黒土だった。アメリカでのプロ野球を見ると、フロリダは亜熱帯気候なのでグラウンドは赤土で、北のシアトルは火山地帯なので黒土である。このように、許正一は土壌と文化や生活を結び付けた話をしてくれ、非常にわかりやすい。

赤土のグラウンドは熱帯や亜熱帯地方に特有のものである。