彼は身長142センチと、ほかの人より背は低いが、その業績ははるかに高い。
台湾最初の医学博士杜聡明とその門下生欧陽兆和、李鎮源などが伝えた蛇毒研究を受け継いだ彼が、アメリカでポスト・ドクターの研究に勤しんでいたとき、指導のシーガー教授は、車を運転させるのは危険と心配し、毎日送り迎えしてくれた。
学問から生活面まで、恩師の人格教育は一生忘れられぬものとなった。その師の教え「学を楽しみ、研究第一」を座右の銘として伝えてきた。大家族のような台湾大学薬理研究所でも、学生はその実験室に入りたくて競争となる。その彼とは、学界の栄誉ある第14回国家講座主宰者に任命されたケ哲明である。
腕に時計のような小さな機械をはめているケ哲明に「それは何ですか」と訪ねた。これは血中酸素や脈拍の計測器である。これにより、酸素不足になっていないかが分る。
脊椎が大きく湾曲し、胸骨が突き出したケ哲明の肺活量は、通常の半分しかない。重いものを持ったり、講義が長く続いたり、階段や遠歩き、あるいは食べ過ぎて腹腔の食物が胸を押すと、速い呼吸がより速くなり、酸素不足を起して脈が早まる。
「学生に言われます。66歳なのだから、年齢と共に呼吸と神経系統が衰えてくるので、適時に酸素を補うようにと」と言う。昼間は活動量が多いので、酸素不足になりやすい。夜眠るときにも呼吸がとまりやすいので、陽圧呼吸器が必要となる。

北京で生まれ、台湾の雲林県の田舎で育った。幼い頃に病に侵されたがケ哲明は良縁に恵まれ、暖かい家庭を築いてきた。後にアメリカに留学して指導教授の教えを受け継ぎ、帰国後はすぐに教授に昇格した。
この病気が取り付いて、もう61年になる。5歳のとき、原因不明のウイルスに感染し、脊椎が曲がりだしたのである。
1945年生れのケ哲明がこの病になったときは、戦後まだ幾年も経たず、おそらく栄養不良のカルシウム不足で、病は悪化していった。「成長は辛いものでした」とケ哲明には、今もその記憶は新しい。
雲林県斗南の辺鄙な村に生まれたが、母は彼を台湾大学病院、宜蘭県の羅東聖母病院、さらに彰化県のキリスト教病院など、あちらこちらの病院に連れて行った。それ以上曲がらないように、昼間は皮のコルセットをつけていて、エアコンのない夏は暑く苦しかった。脊椎の周囲は神経が密集し、手術するにも危険すぎると言うことで、医者の勧めるように横になっているしかなかった。
小学校1年の時は数日行って休学し、2年から4年まではそれでも断続的に通学したが、5年になってまた休学した。田舎では近所の子供たちと友達になり、魚を捕まえたり木にも登ったりしたが、嘉義中学に進学すると、都会の子供はそれほど優しくはなかった。負けず嫌いの彼は、同級生が走っていれば後につこうとするが、走ることもできず、挫折感を味わった。
悩める若きウェルテルは教会に入り、ニーチェやデカルトなどヨーロッパの哲学者の実存主義に、苦しみ悩む自我の価値を見出した。幸運なことに、ケ哲明の家は祖父が漢方医、父は日本の大学に進んだ医者で、その長男である彼のために、両親はあれこれと考えてくれた。

北京で生まれ、台湾の雲林県の田舎で育った。幼い頃に病に侵されたがケ哲明は良縁に恵まれ、暖かい家庭を築いてきた。後にアメリカに留学して指導教授の教えを受け継ぎ、帰国後はすぐに教授に昇格した。
ケ哲明によると、昔の医者は大変だったと言う。取り上げの助産婦でもある他に内科、外科、小児科兼任だった「往診に行き来するのは無理だから、薬学を学び、結婚して薬局を開き、奥さんが店番で、お前は後ろで休みながら処方すればいい」と両親は計画した。病気で学校に行けないと、家で父を手伝って薬を包み、処方を勉強した。風邪に抗アレルギー剤を処方したり、喘息にエフェドリンを出す理由などを学んだ。
喘息患者は咳で夜眠れなくなるが、エフェドリンは気管を拡張させ、鎮静剤でよく眠れるようになる。こういった日々に、薬品と薬品の相互作用についての知識をつけていった。
嘉義中学、嘉義高校を卒業して、高雄医学院薬学科に合格した。将来はこれで身を立てようと、一生懸命勉強したのである。1957年に設立された薬学科は、医学界の長老杜聡明が建学の理想を掲げて台湾大学から移り設立したもので、建物の様式は台湾大学に似て、階段式の大教室が主である。真面目なケ哲明はクラスの筆記者で、同級生は授業になると彼を一番前のよい席に座らせ、試験になると彼の傍に席を取りたがった。答えを教えてもらうためで、それで誰からも人気だった。
当時、医学部の教授の多くは日本教育を受けており、中国語の発音が不正確で、また中国語の教科書も少なかった。ノートを整理するため、日本語と英語の教科書を読み、これをガリ版にして同級生にノートを配布した。こうした努力の結果、大学4年をトップで過ごした。

北京で生まれ、台湾の雲林県の田舎で育った。幼い頃に病に侵されたがケ哲明は良縁に恵まれ、暖かい家庭を築いてきた。後にアメリカに留学して指導教授の教えを受け継ぎ、帰国後はすぐに教授に昇格した。
当時は留学がブームとなっていて、卒業後にケ哲明もアメリカとカナダの大学の奨学金を受けられることになった。しかし、一人で留学して自分で身の回りのことができるか、彼は迷った。しかも教会で知り合った恋人は出国を望まなかったので、家族はまず台湾大学大学院薬理研究所に進学したらと勧めた。4人しか合格しない大学院に合格し、研究を続けて博士号を取得し、さらに助手、講師、助教授まで昇進した。
その当時の薬理研究所は教授陣が手薄で、指導教授は指定されて自分で選択することもできなかった。ケ哲明は欧陽兆和教授の実験室に配属され、出血性の蛇毒研究に進んだ。
台湾は亜熱帯に位置し、毒蛇が多い。蛇毒は毒蛇の唾液の一種で毒腺に貯蔵され、澄んだ黄色を帯びている。かつては毎年平均して数百人が毒蛇に咬まれていた。咬まれた症状から、毒蛇は二種類に分かれる。一つは神経毒で、アマガサヘビ、コブラなどで、咬まれると瞼が下がり嚥下困難などの症状が出る。もう一つが出血毒で、ヒャッポダ、タイワンアオハブ、タイワンハブなどで、咬まれると循環障害を起し血圧が下がり、血液が凝固しなくなって、血尿や血痰が出る。
1960年代の国際情勢は不安定化し、ベトナム戦争が始まると、ジャングル戦に不慣れで、毒蛇を恐れたアメリカ軍が、台湾に海軍第二医学研究所を設置し、台湾大学に蛇毒研究の補助金を出した。
ケ哲明によると、蛇毒は熱に弱いので、アメリカ軍の援助で台湾大学実験室に最初のエアコンが設置されたが、計測機器類は昔ながらの簡単なものであったという。電流で蛇毒のタンパク質を分離するにも、当時はサツマイモの粉をガラス基板に塗り、毒液を垂らした。電気を通すと、タンパク質はプラスとマイナスの両極に移動し、これを小さな塊に切り分けて、神経毒か、心臓毒かを分析した。自前の手作業の分析だが、傑出した論文を生み出し、蛇毒の基礎研究で台湾は国際的に知られるようになった。

北京で生まれ、台湾の雲林県の田舎で育った。幼い頃に病に侵されたがケ哲明は良縁に恵まれ、暖かい家庭を築いてきた。後にアメリカに留学して指導教授の教えを受け継ぎ、帰国後はすぐに教授に昇格した。
台北帝国大学の時代に京都帝大で医学博士の学位を取得した杜聡明が台湾大学教授に就任し、薬理学の門下生にアヘン、蛇毒、漢方薬の三大研究テーマを定めた。
台湾で科学が発達していなかった時代、杜聡明は台湾にふさわしい研究テーマを選択する視野を具えていた。半世紀の研究の結果、アヘンと蛇毒は台湾の科学史に輝かしい記録を残してきた。
杜聡明はまた漢方の近代化に努め、薬理学の博士コースで、どの方面の研究でも漢方に関する研究を加えることを求めた。
当時の杜聡明は、漢方薬の複合処方は成分が複雑なため、科学的方法でこれを純化するか、適応症と用法用量を表示して後の人に参考を残さなければならないと考えていたと、ケ哲明は言う。これは、現在の新薬研究開発の概念である。

?哲明?研究室?美人揃??。研究?場????門能力??揮????????、台?大??理研究所?中??非常?人????。
34歳(1979年)になって、ケ哲明はアメリカの奨学金を受けてポスト・ドクター研究を進めるため、デトロイトのウェイン州立大学の血液凝固で知られるウォルター・シーガー教授の研究室に赴いた。
何回もノーベル賞の候補に挙げられていたシーガー教授は当時69歳で、夕方にケ哲明一家5人が教授夫妻の借りてくれた家に着いてみると、食卓に5人分の食器が並んでいて、教授の温かい思いやりに感じ入った。
教授はまずケ哲明夫婦に車の運転を教えてくれたが、アメリカの車は大型で、小柄のケ哲明には後方が見えないし、ブレーキに足が届かないかもしれないと心配した。そこで自分が車で送り迎えすることにして、この送迎が2年続けられた。
毎日1時間のドライブは、先生と研究を語り、アメリカと台湾の政治経済を論じた。「毎日が講義で、一生で最良の教育でした」と言う。何回も候補となったノーベル賞を逃がして落ち込んだ時、教授はケ哲明を連れて湖畔をドライブした。開業したかつての同級生が湖畔に豪華ヨットを停泊させているのを見ると、道を誤ったかとの想いに捉われるが「先生、医者になったら血液凝固の権威として、多くの国から学生が集まることもありません」と慰めた。
帰国後、1982年に李鎮源はケ哲明を薬理学会の設立に誘った。1983年に李鎮源が理事長、ケ哲明が事務長に就任し、7年にわたり学会運営に力を注いだ。李鎮源の社会的関心(刑法100条の思想犯の廃止を主張)や、剛毅で阿ねない性格を見ながら、彼もリーダーとしての資質を磨き、1996年に理事長に就任した。
指導教授欧陽兆和の篤実で厳格な研究態度、思いやりに満ちたシーガー教授のチーム精神、李鎮源の高い要求と訓練と、3人の師がそれぞれに異なる教育を与えてくれた。
「師弟関係は得難い縁と言えます。先生から論文二本を発表しないと卒業させないと言われても、厳しすぎると思わないでほしいのです」と、ケ哲明は台北医学大学の講演で呼びかけた。杜聡明の時代に院生は少なかったが、博士課程40人余りで300本の論文を発表し、研究の基礎を築いた。

1987年にケ哲明は蛇毒から漢方の研究に乗り出した。
蛇毒研究では、そこに毒があること、致死性があり毒性がどこにあるかが最初から分っていた。漢方薬は違う。ここでは作用しないが、他では利くかもしれないので、血液や内科など科を横断した協力が必要になる。
漢方薬の研究成果は、予測がつきにくいこともある。歴史的資料にあるように利くとは限らず、また新しい反応メカニズムが発見され、こちらにもあちらにも利くこともあって、カバーする範囲は幅広い。
ケ哲明の指導で、台湾大学薬理研究所に小規模な漢方研究チームが設置され、科学者と漢方薬専門家が辛夷や大葉樹蘭(センダン科の台湾固有植物)、セロリ、川弓、リンドウ科植物など、血液をさらさらにする生薬の成分を分析し、血栓を除去、防止する成分を探し求めた。
ケ哲明は、漢方薬が国際的かつ近代的に研究されなければならないと考える。そこで薬品開発に国際的に使われている手法を採用し、有効成分を探していった。酵素、レセプター、細胞、組織、臓器などの生化学、生理機能のテストを行い、その成分の薬効について血小板と血管、気管弛緩、前立腺組織まで動物実験で確かめ、分離や純化を加え、生物に有効な成分を抽出していくのである。
漢方薬開発の長い道程漢方薬開発には潜在的可能性が高いが、厳格な科学的態度でスクリーニングを重ね、臨床実験データを蓄積して有効性と安全性を確認するには、長い時間がかかる。
ドイツで開発に成功したイチョウ製剤は、世界での売上が20億米ドルを超え、樹皮から生成されたパクリタキセルは、乳がん用の抗がん剤として毎年12億米ドルが使われる。その経済効果の高さを見ると、台湾も同じ道を歩む必要がある。
しかし、漢方の生薬は祖先の知恵の結晶とはいえ、台湾にその基盤はあるのだろうか。20年の経験を経て、ケ哲明はこれに答えを見出している。
ドイツでは単一植物から抽出するので、比較的容易である。これに対し台湾や中国では複合の処方が研究されていて、例えば肝臓病治療の龍膽瀉肝湯は、龍膽草、黄岑、梔子、澤瀉と柴胡の生薬5種が使われ、その相互作用は複雑である。
「漢方の歴史は長いとはいえ研究して西洋の薬品と比較すると、それほど神秘的ではありません」と言う。漢方は弁証法的な治療で、薬効が思わしくないときは臨床の誤りか、薬効が遅いなどの原因を考える。経済学的視点から言うと、開発できた漢方薬の効果は40%、それに対し現に80%の効果の薬品があるなら、そちらを使うべきと考える。それに漢方薬の材料は産地や季節などで薬効に差があり、研究に難しい。そのため漢方薬は健康食品に多く用いられ、新薬開発はなお難しい。
1993年にケ哲明は総統府に招かれ、「漢方薬科学化研究と新薬開発の対策」と題する報告を行い、政策が転換された。1997年から行政院は漢方薬科学化と新薬開発を重点発展項目に組込んだ。国家科学委員会のバイオ製薬国家プロジェクトで、ケ哲明は2003年から2010年にプロジェクト総責任者に就任し、川上の学術研究、川中の経済部所属機関の薬品研究開発、川下の医学センターの臨床試験を統合、指導した。
新薬開発の契機2006年以降の研究テーマは、ガン、糖尿病、循環器系疾患と神経の4大テーマの新薬開発に移った。バイオ製薬プロジェクトの8年で、すでに臨床実験105件の申請が出され、51件が認可され、20件が完了している。
さらにこの時期において、特許専門家を招いて研究成果が新薬として完成、登録できるかを評価している。しかしこの過程は、化学的整理から再評価を繰り返して時間がかかる。天然或いは化合物、ないしたんぱく質がその他の化合物の作用を受けて、効果が期待できるか、毒性が薄まっているか、薬材の溶解度が良好で安定しているかの確認が必要なのである。薬効があるからといって、ただちに薬品にできるものではない。
去年3月、7年の努力の結果研究チームは柑橘系のアルカリから抗がん作用をもち、経口でも静脈注射でも使える新薬のCHM2133-P を発表した。動物実験の結果、この化合物は乳がん、卵巣がん、脳腫瘍、大腸がんと肝臓がんの成長を抑制し、毒性が低いことが分った。この技術はすでに新しい製薬会社に移転され、現在臨床試験の準備中である。
私には夢がある最新のニュースでは、去年7月にバイオ製薬プロジェクトが推進し、技術を台湾杏輝公司に移転した新しい小分子抗がん新薬が、すでにアメリカのFDAの第1期臨床試験を通り、台湾で初めから研究開発が成功した最初の新薬となり、国内での研究開発モデルを確立した。ケ哲明は、これを心から喜んだ。
新薬開発は臨床試験まで8年近くかかり、200億台湾元が必要とコストは高いが、成功すれば付加価値は極めて高い。「副作用を予測できれば、新薬の多くは第2期試験で成功かどうか分ります。エイズやガンなど必要性が切迫している新薬では、第2期の結果がよければ、FDAは第3期の期間を短縮します。これに対し慢性病の高血圧などの治療薬は、すでによい薬があるので時間がかかります」とケ哲明は説明する。
教育、研究から社会への奉仕まで、ケ哲明は40年を捧げてきた。今の夢は台湾が早く新薬を開発することだが、その夢も実現しそうである。自分が成功しなくともいい。バイオ製薬の開発が成功すれば、それは全人類のためとなるからである。