幼児英語教育に対する親の信仰を打ち破ろうと、児童英語を専門とする台北師範学院児童英語教育研究所の張湘君所長は親たちに呼びかける。周囲の人が次々に子供を英語教育を行なう幼稚園に送り込むのを見て、自分もそうしなければと大金を注ぎ込む必要はないと。
「言語というのは強力な道具です」と張所長は言う。だからこそ、多くの親は成功の一面しか見ようとせず、失った一面を認めようとはしない。しかし子供が小学校に上がる段階になると、言語の排斥効果と優勢な文化と劣勢な文化へのアイデンティティの相違といった後遺症が次々に現れてくるのである。
幼児英語教育の神話
台湾の英語教育界において、幼児の英語教育に関する研究は数少ない。5年前、張湘君所長は友人から「全面的アメリカ英語の幼稚園は他より毎月5000台湾ドル高いだけで、これで英語の基礎ができるから」と薦められ、2歳10ヶ月の娘を送り込んだ。
当時、台湾では全面的に英語しか使わない幼稚園は今ほど多くはなく、彼女自身「全面的な教育環境」の学習効果を実験してみたくなったのである。全面的な学習法とは、昼間の課程をすべて英語で行なうというもので、1週間の英語の時間数は約22時間前後、バイリンガル幼稚園より3分の1ほど多い。娘は幼稚園から帰ってくると、家では中国語を話すものの、英語のテレビを見て暇な時は英語の本を読んでいた。
幼稚園では先生から中国語を厳しく禁じられたために、近しいはずの母語を話し始めると、悪い子とされてしまう。外国人教師といる時間が長く外向的な性格となり、抱きついたり身体的表現は豊かになった。公園に連れて行っても、子供たちの輪の中にすぐに溶け込み、お友だちを作れる。しかし中国語の語法や話し方というと「読んで私に、一冊の本」とか「お腹すいてる、今」とか言い出す。
「文化的要素を余り考えず、英語をマスターさせればいいと思っていました。それに台湾にいるのだから中国語は問題ないと信じ込んでいたのに、それが間違いでした」と張湘君所長は言う。
中国語教育も必要
張湘君所長の失敗例に比べると、万芳小学校の英語教師盧貞頴先生は娘をアメリカ英語幼稚園に通わせた費用の37万台湾ドルが十分成果を上げたと考える。
「現在の小中学校の生徒は勉強が負担になっていますが、幼稚園ではのんびりと基礎を作ってやることができます」と盧先生は話す。小学校3年生の娘の英語に頭を悩ますことはなく、本を借りてきてやれば盧先生よりも速く読んでしまう。中学校卒業程度の実力はあると、盧先生は見ているのである。
「すべて英語の環境で育った子供には別の指導も必要です」と盧先生は続ける。子供はより慣れた言葉を使いたがるもので、娘は道路標識でも中国語は見ずに英語ばかり見ていたので、先生は車を運転しながら中国語を教えなければならなかった。子供の中国語を退化させないために、先生は娘に中国語の本をたくさん読ませてきたのである。
現在、息子もアメリカ英語の幼稚園に通っているが、息子の中国語学習能力と英語学習能力に落差が見られる。週末に、創造性育成積み木クラスに通わせているのだが、先生が緑の積み木を取るように言うと、息子の反応は半歩遅れる。そしてしばしば「緑って英語で何?」といった具合に尋ねる。中国語が英語ほど分っていないのである。
張湘君所長も、娘をダンスの教室に連れて行ったが、娘は黙って隅に座ってほかの子供が踊ったり叩いたりするのを見ているだけであった。その後で気づいたのは、娘がそのとき使われていた童謡の言葉の意味を理解できなかったということである。意味が分らなければ、学習意欲も上がらない。一方ではそのレッスンが終わると、先生に駆け寄って抱きついたり、先生が疲れていると見るとお茶を入れたりと、やさしいし気が利くし、人と仲良くなれる性格なのである。
早ければ早いほどいいのか
現実を見ると、幼児に英語を学ばせる理由は、幼児は記憶力も模倣の能力もあり、母語の干渉も少ないと親が考えているからである。しかし早いほどいいという考えは、学界で支持されているのであろうか。
張湘君所長によると、これは問題のある考え方で、多くの研究はすでに支持していないという。
特に注意したいのは、幼児が学べる語彙というのが極めて限られているために、浅い知識しか学習できないという後遺症を残すことである。アメリカ英語の幼稚園ではすべて英語と言うものの、討論授業になると子供が話せるのはイエスかノーに過ぎない。先生が恐竜を紹介したとしても、ほかの恐竜の英語名は難しすぎるので、結局ディノザウルス1語しか覚えられない。中国語であれば雷龍、暴龍、翼手龍などの恐竜の名前を理解できるので、知識が単一的になる危険性は薄い。
普通の子供は幼稚園から漢字で中国語を学び始めるが、アメリカ英語の幼児教育を受けた子供は小学校1年からなので3年遅れてしまう。これでは母語を学ぶ大切な時機を逃すと張湘君所長は考える。娘さんは今でも漢字は難し過ぎると思っているのだそうである。
幼児の外国語教育が学界で支持される唯一の理由は、発音が正確になるという点である。それでも正確な英語の発音を学ぶには、二つの条件がある。一つは学ぶ相手が正確な発音であること、そして英語に接触できる時間が十分にあることである。アメリカ英語の幼稚園では、大部分の子供は話し言葉が少し出来るようになるという程度に過ぎない。
子供時代はABCだけではない
台湾の英語熱がヒステリー状態になってから、幼稚園もアメリカ英語幼稚園、バイリンガル幼稚園と普通の幼稚園の三つに分かれるようになった。専門家の多くは全面的な英語の幼児教育に反対しているものの、実情は急速に広まりつつあり、心配な状況である。
張湘君所長の研究によると公立幼稚園では3分の1、私立幼稚園では97%が英語クラスを設置している。その教育上最大の問題は、やはり教師の質にある。多くの親は幼稚園の中国人教師に対して資格を要求するが、外国人教師の学歴は気にせず、外国人であればいいと言う。
「現在の幼稚園は英語のクラスがなければ恥ずかしいと思っています」と張湘君所長は言う。その娘の体験がマスメディアに紹介されてから、多くの幼稚園から講演に招かれるようになった。専門家の話を自分の幼稚園に英語クラスがないことの言い訳にするためである。
嘉義大学の昨年の「幼児教育全面調査」によると、全国の3000余りの幼稚園では、園児募集のために65%がアメリカ英語クラスを設置し、語学教育が幼児課程に取って代わる傾向が見られる。去年11月、31の幼児教育団体が立法院において記者会見を開き、英語教育が幼児教育の正常な発展を妨げるとして「ABCに幼児期の教育を占領させてはならない」と呼びかけた。
「台湾の幼児英語教育熱はすでに40度の高熱に達しています。このまま続けていいのでしょうか。私たちが育成するのは流暢な英語はしゃべるが能力のない人間ではなく、英語でもコミュニケーションの取れる優れた人材のはずです」と張湘君所長は言う。学者自身の過ちの体験は相当の説得力があるが、張湘君所長はさらに、親は英語学習のために子供から多くのことを取り上げてはならないと言葉を結んだ。