無名から有名へ
2016年、台湾大学出版センターは呉永華著の『早田文蔵:台湾植物大命名時代』を出版、2017年には林業試験所が東京大学の大場秀章‧名誉教授に『早田文蔵』の執筆を依頼した。この2冊はそれぞれ台湾の視点と日本の分類学者の視点から早田文蔵という人を紹介している。
長年にわたって台湾自然史の研究に従事してきた呉永華は史料を整理した。「天津条約」による開港以降、西洋人が通商などで台湾に来るようになり、台湾での植物採集が始まった。当時、台湾の標本はすでにイギリスのキュー‧ガーデン(王立植物園)に収蔵されていたが、「19世紀、西洋人は標高3000フィート、つまり1000メートルの範囲、陽明山の高さまでしか達していなかった」と述べている。1895年、日本による台湾統治が始まると資源調査が行なわれた。当初、原住民族が土地を守る険峻な山地の調査は容易ではなく、1915年の「5ヶ年理蕃計画」の後にようやく安定した。こうして日本人が台湾の深山に入るようになり、台湾の生物種の命名権を得ることになったと呉永華は説明する。
早田文蔵は1874年、新潟県に生まれ、若い頃から植物に興味を持っていた。『早田文蔵』の著者である大場秀章氏は、林業試験所に招かれて来台した際に次のように語った。早くに両親を亡くした早田は生活のために呉服屋で働いていたが、重い荷物を背負っていつも地面を見ていたため、地面の苔などの小さな生命に興味を抱いたのではないか、と。
早田は1900年に初めて台湾に植物採集に訪れて台湾と深い縁を結び、東京帝国大学在学中にはすでに台湾植物の標本を大量に大学に送っていた。その師である松村任三郎は台湾植物研究の先駆けで、村松は早田を植物研究のために台湾に派遣した。また当時、有用植物調査を推進していた台湾総督府からも招聘され、早田は台湾植物の分類と鑑定に専念することとなる。
当時、世界の学界では新品種の発見が大きく注目されており、その命名が重要視されていた。「早田は、台湾の植物種を世界の分類体系の中に位置づけることに貢献しました」と林業試験所の研究員で植物組組長の董景生は言う。また呉永華によると、早田が命名した植物はフォルモサや台湾の地名を冠するものが多く、中でも阿里山と玉山の名をつけたものが最も多い。こうして台湾の名が世界の植物分類体系の中に組み込まれた。当時、欧米の植物学界では「台湾」という文字は大きく目を引くものだったのである。
台湾総督府のサポートを受けていた早田は、1911~1921年の10年の間に英語とラテン語による『台湾植物図譜』10巻を上梓した。170科、1197属の3568種と79の変種をまとめ、台湾の植物を世界に紹介したのである。
早田文蔵著『台湾植物図譜』の中の植物細密画。(呉永華提供)