
中央山脈の最南端、霧台郷の山の奥深くに位置するルカイの古い集落――阿礼村は近年、エコツアーの推進に力を注ぎ、外国人バッグパッカーやバードウォッチャーに好評を博してきた。昨年の台風8号の後、阿礼村の半分を占める「下部落」は住めない状態になったが、「上部落」はまだ安全で、もともと住んでいた32世帯のうち10世帯が、道路が寸断した不便もいとわず、ここに残ることを決めた。そして彼らは、低開発で生態を守り続けられ、原住民の生活や文化も体験できるエコツアーを推進し始めた。
このような小型のエコツアーは、大型災害後の原住民集落に持続可能な発展のモデルとなるのだろうか。阿礼村の経験に一筋の希望が見える。
ここまで苦労してやってきた甲斐があったと言うものだ。
阿礼村の風光を一目見ようと、7月初旬、私たちは屏東の施設に「増水期避難」している阿礼エコツアーの中心人物、包泰徳夫妻に頼み、一緒に山に登ってもらった。省道24号線を西へ、三地門から霧台郷へ入ると、急な坂道が1時間以上続く。伊拉、神山、霧台などの集落を経て吉露村に到着すると、大規模な土砂崩落が道をさえぎっている。ここから阿礼村までは6キロ、1時間半の山道を歩かなければならない。
緑の中、誰もいない道を上っていくと、まるで世界に自分一人しかいないような気分になる。何ヶ所かある大規模な崩落地では、斜面に大小の岩が剥き出しになっていて、息をひそめて早足で通り抜ける。食糧を抱えて黙々と歩く包泰徳さんの姿には、ルカイらしい内向的な性格が見てとれ、その妻で客家人の古秀慧さんは、綺麗な花や虫を見かけると、その場にしゃがんで写真を捕る。

中央山脈の最南端、霧台郷の山深くに位置する阿礼村は、俗世から遠く離れた静かな集落だ。(右)教育の仕事に携わる阿礼集落六代目頭目の包基成さんは、ルカイの文化と歴史を熟知している。彼は山の集落に住み続ける10世帯のうちの1人でもある。
正午近く、ようやく到着した標高1300メートルの阿礼村は、ひっそりと静まり、まるで世間から忘れられたような村落だった。最初の一軒が包泰徳さんが経営する民宿だ。庭が美しく、自分で建てた山沿いの家屋は石板が歴史を感じさせる。山肌に突き出した原木のベランダからは緑の山々が望め、まさに仙境のようである。
「上部落」は斜面に沿って建ち、多くはコンクリート建築だが、何軒か伝統の石板造りの美しい家がある。300年の歴史を持つ大頭目の石板屋の前には祭りや儀式を行なう広場があり、石板屋は他の家より少し高い。石板を重ねた壁には百歩蛇が姫の身体の上にとぐろを巻いているレリーフと家の名が見える。頭に赤い蝶結びのリボンをつけた人の図柄が並び、まるで集落を見守っているように見える。「百歩蛇はルカイの祖先で、リボンは資源の連結と集落の団結を象徴しています。どちらも頭目の家にのみ許される装飾です」と古秀慧さんは言う。
伝統の石板屋の梁は上質の木材で、煙で燻されて虫も防げる。長く重い梁を運ぶのも、かつては大仕事だった。
阿礼村の空気は清々しい。上部落から下部落への坂道にはスモモが植えられており、以前は実って落ちるままになっていたが、最近は砂糖漬けにして発酵させ、ジュースにしている。「心臓や血管に良く、観光客に人気があります」と古秀慧さんは言う。ここでは自給自足で粟やタロイモやトウモロコシなどを育てる程度で、農業で暮らしていくことはできないため、村民300余人の85%は仕事や進学で山を下り、40余人のお年寄りしか残っていなかった。

阿礼集落の至るところで住民の芸術的才能が発揮されている。
エコツアーを考え始めたきっかけはこうだ。十数年前に「都市で働く流浪生活」を終えた包泰徳さんは帰郷し、野菜や唐辛子、愛玉、桃などの経済作物の栽培を試みたが、台風で駄目になったり、原価がかかりすぎて赤字になるなど、さんざんな目にあった。6年ほど前、山地では「レジャー産業」がブームとなり、霧台の芸術村を訪れた観光客の多くが「間違って」阿礼村まで足を運び、その美しさを称賛したことから、観光誘致を目指し始めたのである。
包泰徳さんは大頭目である包基成さんの叔父に当り、彼らは村の長老の支持を得て政府の補助も申請した。村民には家や畑の美化を奨励し、鳥がさえずり、花が香る美しい村へと改造していった。一部の家は民宿に改修し、古秀慧さんはお年寄りの記憶を記録し始めた。
2008年、屏東科技大学森林学科の陳美惠准教授が県の依頼を受けて指導に訪れ、自然保護を中心とする「エコツアー」を導入し、村民は将来の発展に自信を持った。
「阿礼には非常に豊かなエコツアーの資源があります」と陳美惠准教授は言う。自然資源としては、阿礼村は双鬼湖(大鬼湖と小鬼湖)の野生動物重要生息環境の入り口に位置し、鳥類(クマタカ、タイワンコノハズク、シロクロヒタキ)、昆虫(チョウ、ホタル、甲虫)、哺乳類(スイロク、ムササビ、センザンコウ)などが見られる。文化的にも貴重で、西ルカイの中でも日本植民地と国民政府による集落移転という「迫害」に遭わなかったのは阿礼村と隣りの吉露村だけだ。
ところが、昨年の台風8号の後、吉露村は地滑りに遭い、村全体が移転を余儀なくされ、阿礼村の「上部落」がルカイの住む唯一の拠点となった。
頭目の家はまるで活きた博物館のようで、石板屋の内部には「ルカイの三宝」――陶器の壺、瑠璃珠、銅刀があり、家の下には前三代の大頭目を埋葬した葬穴がある(ルカイの人々は死後にしゃがんだ姿で家の石板の下に葬られる)。また、ここには人間と大自然との緊密な関係がある。例えば、農薬や化学肥料を使わない自然農法を行ない、机や床には石板を用い、東屋なども周囲にある建材で建てている。「伝統の知恵」は他の多くの原住民集落に比べても、豊富に保存されている。

阿礼集落の「上部落」と「下部落」を結ぶ道には見事な石板壁があり、一枚一枚にルカイの文化と伝説が刻まれている。
こうした既存の条件が整っている上に、住民もエコツアー発展に積極的に取り組んできた。その評判が広がり、観光客が絶えなくなった。そうした中で、昨年の台風8号が襲い、長年かけて作り上げてきた美しい集落が崩壊してしまったのである。災害に苦しめられ、「特定区」に指定されれば村全体が長治の再建地へ移転しなければならないこととなった。
ルカイは結束力が強く、集団での行動を強調する民族だ。今年初めに「上部落」の多数の住民は、ほぼ崩壊してしまった「下部落」の住民と一緒に山を下りることを決め、わずか10世帯が長年大切にしてきたこの集落に残ることになった。
「台風8号から2ヶ月後、省道24号線が復旧した時、まだ電気もない状態でしたが、多くの人がいつから営業を始めるのかと問い合わせてきました。キャンプファイアーや蝋燭しかなくても構わないから、と言うのです」と古秀慧さんは言う。熱心な常連客の支持が、山に残った彼らを支えてきた。
「環境は変わりましたが、エコツアーはもともと生態を中心とした旅行方式ですから」と語る陳美惠准教授は、台風8号の災害はルカイの人々と旅行客に考える機会をもたらしたと言う。――人はどのように環境の変化に対応していくべきか。いつ、何を為すべきか。また、いつ手を引いて大自然に任せるべきか、などである。
こうした思考から、阿礼村に残った人々は、7〜10月の台風の季節は村を観光客に開放しないこと、また別の季節でも天候が悪い時は旅行者を受け付けないことにした。例えば今年4月の再オープンの後は毎週旅行者で満員だったが、5月23日の大雨以降、天候と道路状況が不安定だとされ、5月末から6月末までの予約をすべてキャンセルした。吉露から阿礼までの6キロの道は修復が難しいため、そのままにして、旅行者には吉露から歩いてもらい、低開発地域のエコツアーの精神を体験してもらっている。

中央山脈の最南端、霧台郷の山深くに位置する阿礼村は、俗世から遠く離れた静かな集落だ。(右)教育の仕事に携わる阿礼集落六代目頭目の包基成さんは、ルカイの文化と歴史を熟知している。彼は山の集落に住み続ける10世帯のうちの1人でもある。
陳美惠さんによると、災害後はエコツアーの条件はより過酷になり、一年のうち半年しか営業しなければ続けていくのは難しく、ルカイの人々はさまざまな仕事を兼務しなければ持続的に発展していくことはできないと言う。そこで今年4月、彼女は林務局にかけあって一つの実験プロジェクトを実施することになった。阿礼村に残っている住民5人を招聘し、付近の双鬼湖保護区での観測員を務めてもらうというものだ。動植物の数や活動状況、土砂崩落地における植物の回復状況、土地の裂け目の変化などを観測する仕事で、毎月1万7000元の固定給が支給される。
「これによって住民の基本的な生計が確保でき、山林保護にも役立ちます」と陳美惠准教授は言う。地元に住んでいるため周囲の環境にはもともと詳しく、地の利も良いため頻繁に観測でき、豊富なデータを蓄積できる。高い費用を出して余所の人を雇い、時々観測に来るよりずっと高い効果が期待できる。こうして「力を蓄えていく」ことによって、住民たちは山林保護と持続可能な発展の関連性を理解し、環境の変化に対する敏感さも高められる。
「このような厳しい環境でも留まったのですから、彼らは本当に山を愛しているのです」と陳准教授は言う。山林に休息を与えるために全住民が山から下りれば、逆に違法伐採業者が無人の山にはびこることになる。それよりも、本当に山を愛する住民が政府と協力関係を結び、ともに山林を守っていけば原住民集落でも雇用が確保でき、原住民族が自力でコミュニティを運営する力も養える。それは政府と集落と山林の三者にとって有利な道だ。現在、省道24号線上の三地門郷の三地村、達禮村、屏東51号線上の徳文村などに原住民集落があり、環境観測とエコツアーを統合した方式を推進する価値がある。

包泰徳さん、古秀慧さん夫妻は山林に深い思いを抱いており、懸命に阿礼村のエコツアーを推進している。写真の猫は、飼い主が不在の数日間お腹をすかせて待っていた。
では、台風の季節が来たらどう避難するのだろう。包泰徳さんによると、これについては全住民のコンセンサスが得られているという。彼らは自分たちが山に残ることを各界に認めてもらうために、能動的に避難することを決めている。少しでも危険がある場合は、救難救助に社会資源を浪費しないよう、必ず山を下りる。ただ、その時にどこに避難するかについては、まだ政府とコンセンサスが得られていない。政府の規定によれば、山に残った住民は、軍営か、阿礼の永久住宅地(長治百合園区)に建てる避難所に避難することになっている。しかし、避難所は旅館や共同住宅のような形態で、一軒の家ではないため、3〜4ヶ月におよぶ増水期に荷物を持って山と避難所を行き来するのは非常に不便だし、食と住の手配を政府に頼らなければならない。そこで彼らは、資金を用意して長治永久住宅地に1800坪の土地を買い、高雄県那瑪夏郷民族村のモデルに倣い、ワールド・ビジョンに避難所建設を頼むことにしている。郷長はすでに同意しており、今は県の回答を待っているところだ。
包泰徳さんは、現在もう一つの募金計画を進めていると言う。それは、長治に公共空間を設け、避難している期間中、山の産業に関連する仕事(手工芸や彫刻)をするという計画だ。ここは子供たちの放課後の遊び場にもなる。包さんは、永久住宅地の産業も山の上の産業と相互補完できると考えており、これについては長治の住民も賛同しているという。具体的な方法については、これからの話し合いが待たれる。
「山に残った10世帯は問題児ではなく、集落を守る功労者です」と話すのは、これから長治の永久住宅に入居する阿礼再建会の柯清雄幹事長だ。村民が平地の永久住宅で落ち付いたら、次の一歩は山の上の集落の再建だと言う。現在は環境がまだ安定していないため観察が必要だが、ルカイの集落文化再建と特産品の推進はそれを待つ必要はない。そうした中で、エコツアーの発展は原住民集落の文化と生命を維持するための基礎となると考えている。
「時間さえあればエコツアーのガイドとして山に戻ります」と話すのは平地の屏東中正中学で教員をしている阿礼村六代目頭目の包基成さんだ。エコツアーの目的は金儲けではなく、生活が成り立てば良いと彼は村民に話している。阿礼村が追求するのは暖かい人情とルカイ文化のある集落であり、清らかな百合の花の精神が代々続くことなのである。
昨年の台風8号の災害で、阿礼村は二つに切り裂かれたように見えるが、再建への険しい道を経て、彼らが将来に求める道はやはり一つにつながっているようである。

ゲットウ(月桃)の茎を編んで蓆を作る老婦人。阿礼の人々は大自然と緊密に関わった生活の知恵を守ってきたが、災害後、多くの人が山を下りてしまい、こうした光景を見る機会は少なくなった。(下)昨年の台風8号災害の前、粟の収穫期が来るたびに畑に近い倉庫で忙しく働く女性の姿が見られたが、こうした穏やかな光景が再び見られるようになるだろうか。