その時開発していた物の重要性は後に証明される。CPUだったのだ。施振栄にはこれが第二次産業革命を起こすとわかっていたが、当時その価値を知る人は少なく需要も限られていた。そこで彼は、CPUの将来性を台湾社会に直接訴えることにした。「まず雑誌『園丁的話(ガーデナーの話)』を創刊し、毎期2万冊発行しました。ガーデナーとして、台湾で新たなコンピュータ産業を栽培しようと」また、コンサルタントになって、プログラマー3000人以上を育て上げた。
1981年、ついに自社製のコンピュータ「マイクロ・プロフェッサーⅠ」を発売。廉価で使いやすく、世界を驚かせた。世界のマイクロコンピュータ市場での台湾ブランド初登場だった。「マイクロ・プロフェッサーⅠは世界で寿命の最も長いコンピュータ製品です。変化の激しいこの産業で35年間同じ製品を売り続けるのは奇跡です」
続くマイクロ・プロフェッサーⅡでパソコン市場に進出、まさにエイサーの発展期だった。市場のニーズも高まり、資金も入ってきた。それに、台湾のメーカーは協力的で、エイサーの自社ブランド確立への夢を支えてくれた。
40年間には困難もあった。やむを得ぬ起業だったが、後悔したことはないと施振栄は言う。起業には、苦労を覚悟し、何があってもやり抜く決意が必要だ。「私の座右の銘は『困難に挑み、それを克服し、価値を生み出す』です。困難のある所にはチャンスもあります。困難がなければとっくに誰かが始めていますから」かつてエイサーは2度の経営・組織変革を経験した。今までの方向では先細りになるのが見えていた。「人事やリソース面で新たな枠組みが必要でした」
目下、エイサーは3度目の変革を進行中だ。「今回は着手が遅れ、本来なら3年前にやるべきでした。でもやらないわけにはいきません」かつて一世を風靡したエイサーも最近は赤字が続く。「情報通信産業全体がパラダイムシフトを迎えている今、自分たちのためだけでなく、台湾の産業にとって新たな方向を示せればと思います」と施振栄は語った。
『光華』は、台湾の成長や進歩をより多くの人に伝えるという、海外への発信役を担ってきました。今後も世界に伝え続けてほしいのは、「台湾は世界の友人だ」というメッセージです。我々はさまざまな分野で他の国と協力し、共通の価値を作っていけるのだと。
――施振栄