
我々は美しい湖をなくしてしまった。我々は内陸湿地をなくしてしまった。見つけた人はどうか返してください。それを池上郷に、池上の人々に、そして自然に」
これは、台東池上の人々が数年前に大坡池のほとりに掲げた言葉だ。「池上」という地名の由来はまさに大坡池から来ており、大坡池があるからこそ池上がある。誤った開発によって大坡池を失ってしまった池上の人々は今、かつての大坡池の生命にあふれる姿を、記憶の中に追い求める。
台湾東部の花東縦谷を走る列車が池上駅に着くと、客はみな我先にと駅弁を買い求める。
日本統治時代から戦後しばらくまで、この駅弁は竹の葉に包まれた光り輝く池上米の握り飯に、沢庵や肉、梅が添えられていた。中でも美味だったのは、大坡池の名産、小エビだった。
半世紀近くが過ぎた今日、池上駅前には池上弁当を売る店が軒を連ねる。木の折り箱に詰められたご飯や梅は変わらず美味だが、なぜか池上弁当名物であった小エビが姿を消している。
「おいくつですか。池上の小エビを知っているなんて。あれは炒めても、かき揚げにしてもおいしかったですよ。でも戦後10年ほどで、なくなってしまいました」と、弁当屋の72歳になるおじいさんが説明してくれた。
その味を知るのは50歳以上の人だけだ。その小エビ、シナヌマエビを育んだ大坡池も、忘れられて20年近くが過ぎていた。

大坡池を大切にする池上の人々は、池のほとりで運動をする時などに、ついでにホテイアオイを抜いていく。写真は池上郷文化解説ボランティアの簡淑瑩さんだ。
台東県池上郷ファイル
池上郷は、面積が8268.54平方キロメートル、人口が9812人(2006年4月の統計)で、北は花蓮県富里郷と接し、台東縦谷の最も北に位置する。南北に長い花東縦谷全体でも、最も東西の幅の広い地域である。肥沃な土壌や清浄な水質、温和な気候のおかげで、池上の米は2004年から連続3回「宝島米王」を受賞している。池上はすでに「米の郷」として不動の地位を確立している。

春の終わり、コガモ(上)やバン(下)が大坡池の水面を行き交う。
3000万年前、フィリピンプレートとユーラシアプレートの衝突により、池上断層が西北方向に逆断層運動を行った結果、窪地が形成された。その後そこに新武呂渓流の伏流水がたまって、標高269mの地に断層湖を形成し、台湾唯一の内陸湿地となった。今日も池上断層は年に2〜3cmずつ移動しており、国内外の地質学者にとって重要な研究地点となっている。
日本時代の記録によると、1910年の大坡池の面積は約55ha(サッカー場55個分の広さ)あった。お年寄りたちの記憶ではその倍以上はあったという。
大坡池では当時フナやコイ、ナマズ、ウナギ、小エビなどが捕れた。昔はここで捕れた立派なコイを人に送り届ける時などは、濡らした紙をコイの目に貼り付けた。そうすると台東の町に着いても、コイはまだピンピン跳ねていたという。
弁当屋の一軒に当時の大坡池の写真が掛けてある。水草が生い茂り、漁師の姿がある。「子供の頃は池上劇場から300mぐらいの所にまで大坡池が広がっていて、劇場には湧き水がありました」と言うのは、池沢源流協進会の理事長である頼永松さんだ。そして湿地の周囲には肥沃な泥濘地が広がっていた。
「私が今住んでいる地点は昔は池の中でした」と72歳になる余阿欽さんは言う。大坡池で漁をして5人の子供を育て上げた。当時ここに家を建てるのに、余さんは数人の村人に手伝ってもらい、泥地を山の土で埋めるのに2ヶ月以上かかった。「この近所には30戸余りが暮らしていますが、みな大坡池で生計を立てていました」と余さんは語る。

池上郷万安村の有機水田には栽培者の名前が表示されている。
湿地とは水域と陸域の境目で、たいてい水に覆われている。沼や河口、池、窪地の水場などにあり、塩水と淡水がある。
湿地は、雑草などが生い茂る無用の地とされてきた。だが河川の氾濫などで運ばれる泥土や養分によって湿地は肥沃な土壌を形成している。「人類が水草の生える地域に暮らしてきたのは、まさにそのせいです」と中央研究院生物多様性研究センターの研究員である謝蕙;蓮さんは説明する。
もとは原住民が魚を捕っていたところに、やがて漢人、日本人がやってきて、水路を作り埋め立てをして、湿地を農漁業用地へと作り変え、これが湿地の寿命を急速に縮めることになった。
1975年頃には、台風が来ると大坡池の水があふれ、付近の農家や田畑が浸水するというので、政府が排水溝を建設した。それに加え台風で大量の土砂が堆積したこと、田畑をどんどん増やしたことなどで、55haあった池は1990年代には2haにまで縮小してしまう。大坡池はまるで蒸発してしまったかのようだった。
「『地はその利を尽くす』と古人は言いました。土地ごとの特性を生かせという意味です。ところが人類は湿った土地を嫌ってひたすら乾燥させたため、その生命力を枯渇させてしまいました」と中央研究院生物多様性研究センターの研究員である陳章波さんは指摘する。
ところが1985年、台東県は大坡池を観光エリアとすることを決定。農地を徴集し、池の堆積土の除去に着手した。92年から98年にかけて、池上郷役場は1億元以上の経費を獲得し、28haに及ぶ「大坡池風景パーク」建設を進めた。10年余りの建設で大坡池は大きく姿を変えた。
入園料を取るため、池の周囲には赤レンガの塀をめぐらせた。また池の面積を固定するため、岸を石やコンクリートで固めた。そして池を深く掘るかたわら、二つの人工島を作った。そのために運んできた土は合計60万m3、15tトラック4万台分に上る。
島にはアスファルトのサイクリングロードが敷かれただけでなくバスケットコートまで登場した。パーク内にはほかにもキャンプ場やバーベキュー場、子供の遊び場などがあり、そして二つの島を結ぶコンクリート製の橋と赤い鉄橋が架けられた。これら人工施設の総面積は、水域面積の3分の1を超えたのである。
「もし役所が農地を徴集し、池を整備していなかったら、大坡池はとっくに干上がっていたでしょう。だからまったく意味のない工事だったとは言えません」と、ボランティアで池上生態解説員を務める簡淑瑩さんは考える。
ただ、これらの建設が進むにつれ、かつての大坡池の美しい姿を記憶に留める人々は、それが人工的な姿に変わっていくのに不満だった。そして住民たちは、それらの設備の一つ一つを別名で呼び始めた。
屋根付きバーベキュー場は「豚小屋」、二つの人工島は「牛糞」、土地の液状化で壊れたアーチ橋は「思案橋」というように。
これらの設備と、6000万元を費やした長さ450mの水路や駐車場などは、マスコミによって2004年の「台湾公共工事ワースト10」に選ばれ、更に住民の反感をあおった。
池を見下ろす斜面で民宿「玉蟾園」を経営する彭玉琴さんによれば、大坡池が最も美しいのは早朝で、水面に薄霧がかかり、周囲の水田が色とりどりのパッチワークのように見えるという。「大坡池の良さは自然に囲まれた農村の美しさです。人工島でバスケットをするために池上に旅行に来る人がいるでしょうか」と問う。
視覚的な損失だけでなく、不適切な工事は動植物の生息の場を奪った。例えば岸をコンクリートや石にしたことで湿地独特の推移帯が失われ、両生類が繁殖できなくなった。また、除去された大量の泥には水生植物の種も含まれており、しかも水深が増したことで植物の生長も妨げられた。そこへ農業廃水の流入も加わった。
魚類ではドジョウ、ウナギ、ナマズ、フナ、シナヌマエビ、ヨシノボリなどが、植物ではハスやアシ、ウキクサ、ガマ、クワイ、オオサクラタデが、鳥類ではキジやバン、ヒメクイナ、シロハラクイナが姿を消した。
それに対して増えたのは、100万元かけてショベルカーを使い、山ほど運んで来た外来種のホテイアオイだった。「池の殺し屋」の異名を取るこの植物は驚異的な速度で繁殖して水面を覆い、ほかの原生植物の空間を占領したばかりか、水面下の魚類からも陽光を奪ってしまった。

かつて間違った開発理念の下で大坡池の周囲はコンクリート建造物で固められ、生命が失われてしまった。写真は回復前の景観だ。
「同じ10年の歳月、2億元の経費をかけて、隣の関山鎮では何もなかった所に美しい水辺の公園を作り出したのに、池上では不適切な工事をして、美しかった場所を失ってしまいました」と池上郷の李業栄郷長は苦笑する。
1999年の台湾大地震後は政府の建設予算が大きく削られ、そのおかげで大坡池の開発も歩みを緩めた。2000年、大坡池の自然をなんとか取り戻そうと、地元の教師や公務員、電信局職員、環境保護団体によって池沢源流協進会が組織され、地元住民の意見を発表していった。
2000年の県市長改選で地方の政策にも転機が訪れた。徐慶元県長と地域発展局の盧維屏局長(いずれも当時)の尽力によって、不当な設備を撤去する「大坡池環境回復工事」が4年計画で進められることになった。いわば大坡池は「後戻り」を始めたのだ。
それまでの工事そのものが、土地の液状化や工事遅延、設備の崩壊などにより竣工が遅れ、検収も終っていないような状態で、それを再び何億元も費やして撤去するとなると、万事規則通りの役所にとって容易なことではなかった。しかも責任の追及問題になるので、過ちを認めたがらないのが役所の常である。
ところが今回は、地元と自治体が自然回復のためにと、過ちを認めて多大な負担を受け入れた。そして2005年、大坡池回復工事は内政部営建署によって「魅力ある地域景観賞」の1位に輝き、かつてのワースト10の汚名をそそいだのである。
工事の不正が原因で当時の郷長は他の地へ移っており、地元住民の意見も一致していたので、現在の池上郷郷長にとって過去の過ちを認めるのはそれほど困難ではなかった。だが問題は、新たな撤去工事への地元勢力の介入をいかにして防ぐかだった。そのために郷長は慣例を破って、工事発注を県政府に任せたほどだった。
回復工事でまず着手したのは、あらゆるコンクリート設備の撤去だった。そして撤去した建材はできるだけ再利用された。例えば、結局誰も渡ることのなかった鉄橋は、今では公園内の東屋になっている。
岸のコンクリートも撤去され、草の生える緩やかな傾斜の堤防に変わり、池の周囲をめぐる木製の桟道が作られた。水辺に近づいたり遠のいたりしながら、さまざまな表情の大坡池を楽しめる。
桟道を歩いていて最も嬉しい驚きは、所々に水から引き抜かれたホテイアオイを見かけることだ。最初は環境保護団体の人々が始めた行為が、次第に地元の人に広がって、今ではホテイアオイを引っこ抜きながら歩くのが人々の習慣になっているという。
「ほら、このタイワンヤナギは最初は親指大でしたが、今は直径10cmほどもあります」と簡淑瑩さんは、5年前に植えた苗が徐々に育ち、池が息を吹き返し始めたのを感じている。しかも、池沢源流協進会の人々にとってさらに心躍るのは、すでに伝説となったシナヌマエビが、わずかとはいえ再び姿を現したことだ。

「半畝の方塘、一鑑(かがみ)開き、天光雲影ともに徘徊す」。広々とした大坡池の景色は訪れる人の心を晴らしてくれる。
地域景観賞に輝いたとはいえ、県の地域発展局と池上住民はまだ満足したわけではない。今年、彼らは大坡池回復に向けて第二のステップを踏み出した。それは、大坡池を健康的な体質を持つ池にしようというものだ。
晩春の4月、中央研究院の陳章波さんと謝蕙;蓮さん、そして池上郷長、地域発展局、地域団体がともに、大坡池回復のための大実験を行った。
大坡池を4〜5回訪れたことのある陳章波さんは、「回復作業は元通りにすればいいというだけではなく、まず大坡池には何があるのか、そして住民の理想とする大坡池はどのようなものかを明確にする必要がある」と考える。目標を定めてから、自然環境の回復や生物の再生に取り組むべきだというのだ。「無闇に回復させればいいというだけでは、やはり間違った運営になります」と陳さんは強調する。
例えば、緑の再現をと地域発展局が発注した植樹事業では、景観の美を求めたせいもあるのだろうが、メタセコイアやホウオウボクといった外来種の大木を植え、結局は強い季節風に耐えられず、枝葉のもげた幹だけという哀れな姿となってしまった。
「確かにあの植樹は不適切でした。現在は台湾原生のセンダンの木に植え替えました」と、地域発展局総合開発課の江慧卿課長は説明する。
また、豊かに水草を生やそうと同局は台湾西部海岸原生のキツネノマゴ科の水草を植えたが、やはり繁殖し過ぎて、ほかの原生植物を脅かしている。
賛成、反対両方の声が聞かれるが「大坡池を珍しい水草で満たし、植物園もどきの生態パークにする必要があるのでしょうか。以前の工事は醜い景観を増やすものでしたが、今度は不適切な植物を増やすことになるかもしれません」と簡淑瑩さんは指摘する。
今後、保護に力を入れるべき鳥類は、水鳥のレンカクだろうか、それとも陸地のキジだろうか。レンカクはヒシノミやハスといった水面の植物の実をついばむ。キジには姿を隠す潅木や草むらが必要だ。選択によって、植える植物や環境も違ってくる。

「半畝の方塘、一鑑(かがみ)開き、天光雲影ともに徘徊す」。広々とした大坡池の景色は訪れる人の心を晴らしてくれる。
大部分の撤去が終わり、自然環境作りに向けて大坡池は歩み出した。だが、人々の憩いの場であることと、生物生息の場であることの間にどのようなバランスを取るか、問題はまだ残る。
「人間を大坡池から完全に排除する必要はありません。人は侵入者とは限らず、自然の保護者にもなり得るのですから」陳章波さんは、池上の人々は大坡池のために大きく譲歩したのだから、更に生物のために一歩譲ってもいいのでは、と言う。
例えば、人々に人気の湖畔の桟道のせいで、水鴨などの鳥類は身を隠す場がなくなっている。これら遊歩道は半分だけ開放すればいいのではないか。
だが、やっとのことで再び大坡池に親めるようになった住民にとって、3キロに及ぶ遊歩道での散歩や運動はすでに日常風景となっている。環境保護団体も、再び人々から大坡池を遠ざけることを望んでいるわけではない。
幾度か討論を重ねた後、陳章波さんが新たな提案をした。遊歩道の周囲に更に多く木々を植え、水鳥が姿を隠せるような空間を広げようというのだ。また、巨額の資金が投じられ、後に5分の1だけ削られた二つの人工島は、鳥類の生息地として作り変え、人の立ち入りを禁止することで住民は合意に達した。
もう一つ、人間と生物のそれぞれの利害が衝突するのは、大坡池北岸の草地だ。謝蕙;蓮さんによれば、理想の湿地というのは、推移帯の水位差が最低1mあり、推移距離も10mなければならない。そのような水位の高低差があってこそ、岸辺の有機物質が湿地に送り届けられ、それぞれの水域の植物生長を助ける。
「推移帯というのは水が引いても泥ばかりで、人は遠くから眺めるしかありません。それを、寝転んだり走り回ったりできる草地と交換しようというのですから、この点をどう納得してもらうか、台湾ではまだ理解を広める努力が必要です」と謝さんは言う。

司令台
外見的な修復はほぼなされたものの「池上弁当」の看板であるシナヌマエビを復活させるには、農薬問題の解決がカギとなる。大坡池の水はかつては新武呂渓と自然の湧き水が源となっていたが、現在の水源は錦園地区の渓流や池上の水田の灌漑水路から来る。そのため農薬や殺虫剤が大坡池にも混入し、エビを消失させる主な原因となっている。
今年始まった回復計画第二段階の重点は、水質と生態の復元だ。大坡池の水温や深さ、pH値、有機質の量、透光度などを測定しながら、農業用水が大坡池に浸入する前に水質浄化ができるよう、周辺水路を整備するのだ。このプロジェクトの経費は1億3330万元、3年でシナヌマエビが大坡池に戻ることを目指す。
水路に沿って自転車を走らせば水の流れる音も心地よく、遠くに目をやれば海岸山脈から雲が滝のように流れ落ちている。渓谷には一本の電信柱も見かけない。万安地区に広がる50ha余りの有機水田では健やかに稲穂が育ち、傍らに立つ札には誇らしげに「台湾第一の良質米・池上米」と書かれている。
水田脇の街灯にかぶせてある覆いに、他所から来た人はいぶかるかもしれない。これは夜間に稲をよく休ませるため、灯りが水田に射さないようにする工夫だ。
良き山に良き水、見渡す限りの水田があり、夜には自然の暗闇がある。台湾上質米の故郷であり、有機米推進の中心地である池上郷は「健やかさ」を発していると言えるだろう。陳章波さんと簡淑瑩さんは、それぞれ他所から来た学者と地元の文化人の立場で、今回のプロジェクトによって「健やかな故郷」を目指す。
自転車で大坡池へ戻れば、池の水面に山影が映り、その空を鳥がついと横切る。「むしゃくしゃする時でも大坡池にやってくれば、自然と足取りも落ち着いて、心が穏やかになります」と彭玉琴さんは言う。「これはまさに、中国人が自然に見出す『望』の美学ですね」と陳章波さんも言う。
「半畝の方塘、一鑑(かがみ)開き、天光雲影ともに徘徊す。渠に問う、なんぞかくの如く清なるを得たる。源頭の活水有りて来たるがためなり」と、大坡池の生命の源について、すでに宋の時代の朱熹が言明している。池上郷の人々の努力が実れば大坡池は生き生きとよみがえり、将来、子供たちはきっと池のほとりで、この詩をしみじみと理解するだろう。

春の終わり、コガモ(上)やバン(下)が大坡池の水面を行き交う。
学名:シナヌマエビ
生息地:渓流、河川、池
食性:雑食
大坡池の代表的な生物で、同地の生態回復の指標ともなっている。
環境保護署環境検験所の水質・毒性検査に用いられる生物である。
コイやキンギョ、モツゴといった淡水魚と比べ、シナヌマエビは農薬に対し、より敏感に反応する。また、テナガエビ、ブラックタイガー(ウシエビ)、コウライエビと比べても敏感で、しかも普遍性があり、生態的な価値が最も高い。
資料:中央研究院生物多様性研究センター、陳章波「大坡池に関する報告」より

人工の島と外来植物であるホテイアオイを取り除くために、大坡池ではショベルカーが作業を続けている。大坡池では人工的なものを取り除く方法で自然回復が進められている。

水がきれいになったことを示すトンボの幼虫も見られるようになった。

「五本の包丁」と呼ばれた入口のオブジェ。

人の手で草を刈り、いたるところに雑草の株が残る田んぼは有機水田の証しだ。池上郷は台湾の有機米栽培の中心地であり、3年続けて「米王」の栄誉に輝いている。

「思案橋」と呼ばれた赤い鉄橋。

「半畝の方塘、一鑑(かがみ)開き、天光雲影ともに徘徊す」。広々とした大坡池の景色は訪れる人の心を晴らしてくれる。

大坡池は池上の暮らしと深く関わってきた。大坡池復活の経験は、台湾のほかの地域でも参考にできるものだ。

キャンプファイアー場

かつて池上弁当の看板だったシナヌマエビが最近再び大坡池に姿を見せるようになった。