学校で使われるノート、住民が結婚式で撮影する記念写真など、すべてに地元製造の紙が用いられる。そんな町があるのをご存知だろうか。ふるさと名産の紙に、故郷への思いや恋人への愛をつづる。そんなうらやましい物語が、この「和紙の里」――中富町にある。
中富町に足を踏み入れてまず目にとまるのが、西島和紙を両手に持つ少女の絵が描かれた大きな看板だ。さらに車を進めてカーブをいくつか曲がると、全国の和紙を展示した工芸美術館の美しい建物が、大通りに面して建っている。通りに並ぶ商店もみな芸術的な装いで、そこには現代的にデザインされた、和紙作りの照明具や傘、財布、名刺入れなど、さまざまな工芸品が陳列されている。
「中富町全体をひとつの『和紙博物館』にしようという考えでやっています。ここを訪れた人は、中富町の西島和紙を買うだけでなく、全国のさまざまな紙について知ることができるし、商店自体も博物館さながらで、季節の行事に結びついた和紙工芸なども見ることができます」と説明してくれたのは、富士川沿いに暮らし、中富町の町づくりに関ってすでに20年という丸山優さんだ。
以前は、中富町の和紙はほとんどが書道用で、それ以外と言えば、のし袋に用いられるのがせいぜいだった。だが、時代の変化に合わせて、現在では他業界との協力が進んでいる。コンピュータ用紙の開発や菓子業界との協力が進められたり、また、山梨県最大の酒造メーカーからラベル製造を請け負ったりしている。「これらの取り組みは、町民の考え方にも変革が起こったことを表しています。みなで産業振興の道を探るうちに、視野も広くなりました」と丸山さんは言う。
西島和紙
山梨県南部にある中富町は、日本でも有数の書道用紙「西島和紙」の生産地だ。総面積43平方キロのうち70パーセントが森林に覆われており、わずか6パーセントの耕地面積を地元の人々はうまく利用してきた。明治時代にまず養蚕業が導入され、続いて製紙工場が建設されると、和紙作りも地元の主要産業として発展した。最も盛んだった頃は、東京都で販売される画仙紙のうちの半数を中富町の西島手すき和紙が占めていたという。
「中富町は和紙作りとともに数100年歩んできましたが、やがて中国や韓国、台湾などから廉価な紙が次々と輸入されるようになると、西島手すき和紙も衰退して、製紙工場も一軒一軒と閉鎖されていきました」と語る丸山優さんは、中富町育ちで、現在は山梨県立青少年自然の家の所長を務めている。「1980年頃、日本では地域おこしが注目され始め、その影響で中富町でも町づくりが徐々に始められました。町民は、和紙の用途を広げることで地場産業の延命をと考えたのです。そんな中から、『手作りの卒業証書が作れないか』といった奇抜な発想が生まれました」という。
1983年頃、町立中富中学の望月教三校長の提案で、「それではいっそ、手すき和紙の卒業証書作りを始めてみようじゃないか」ということになった。業者にも協力してもらい、それによって和紙産業の活性化を図ろうというものだった。
和紙の卒業証書
熱心に議論が交わされるうち、「3本のミツマタ」というアイディアが生まれた。また同時に、地場産業の発展に取り組んでいた西島和紙組合青年部も、和紙作りの研究に懸命に取り組み始めた。「『3本のミツマタ』とは、中富町の中学生は入学時に、紙の原料となるミツマタの木を3本植えることにしようというものでした。卒業時には、成長した木から自分で紙の原材を採取し紙をすく。自分の手ですいた『和紙卒業書』は、子供たちにとってもかけがえのない思い出になるはずだと考えました」と、丸山所長は当時を回想する。
日ごとに減少していたミツマタが、中富町の子供たちの手で学校の敷地内に植えられ、青年部ボランティアの指導の下、樹皮をはぎ、煮るといった和紙製作作業が一つ一つ行なわれた。最初のうちは、でき上がってみると、しわくちゃだったり、くるんと丸まったまま広げることができなかったり、不純物が混じって見栄えが悪かったりと、順調にはいかなかった。だが、それでも試みは続けられ、2年後にはとうとう、とても美しい、しかも温かみのある和紙卒業証書ができあがったのである。
今では、幼稚園から小学校、中学校と、中富町のほとんどの教育機関で、和紙製の卒業証書が用いられるようになった。東京からも文教大学がうわさを聞きつけ、卒業証書製作の協力を中富町に依頼してきたほどだ。
紙すき体験
和紙卒業証書の成功には、使命感に燃えた製紙業者の貢献が大きく関っている。「和紙は、中富町が持つ豊かな伝統文化です」と言うのは、自らの経営する三石製紙工場で全国一の紙作りを目指す笠井伸二さんだ。「本業の製紙業だけでなく、私は和紙作りの先生もしています。和紙の持つ肌合いを子供たちがじかに感じてくれればと思います。自分で和紙の設計をすることは、一種の美的教育になりますから」と熱心に語ってくれた。
和紙作りの体験は、地元小中学校の郷土教育の一環となっているだけでなく、社会人教育の場にも広がりつつある。中富町では、和紙作りを体験してみたいという他地域の人々のために、週末ごとに製紙工場を一般開放している。参加した人々が、芝生の一角に座り込んで樹皮はがしに没頭したり、或いは屋内で、和紙作りの大きなスコテをお湯につけて、恐る恐るといった手つきで揺らしたりしている。そうやって自分の手で作り上げた西島和紙を、記念として家に持ち帰ることができる嬉しさはひとしおだ。
「紙は人の暮らしの中で大切な役割を果たしています。そんな紙を作るおもしろさは、体験してもらうに越したことはないでしょう」と言うのは、社会人和紙作り体験コースを主催する依電光太さんだ。和紙産業が活性化し、地元のお年寄りが再び忙しくなり始めたのがとても嬉しく、1回また1回と体験コースを主催するのも苦にならない。「休耕地に再びミツマタの木を植えましょうと、お年寄りを励ましています。他地域からの学習希望者、そして農家のお年寄りという『需要と供給』がぴったり合えば、中富町では毎週2回社会人コースを開くことができますよ」と言う。
和紙職人
和紙作り指導員の望月秀一さんは、「和紙作りは、それほど簡単ではありません。工程の途中で失敗すると、また初めからやり直しです。でも、だからこそ全ての過程が終わって完成した時の満足感はひとしおだし、それに紙作りをすることで、他の工芸品に対する興味もわきます」と付け加える。人口5万人弱の中富町では、65歳以上の高齢者が33パーセントを占める。そんな中から、この地にとどまり、何年もの歳月を費やして和紙作りの技術を身につけたいという若者を見つけ出すのは難しい。しかも腕のいい職人をとなればなおさらだ。
若い世代の人口流出が進む中、中富町では「職住一体」という産業振興策を打ち出した。町民に「中富町」の株主になってもらい、その資金をもとにして2階建ての町営住宅を建設、販売する。つまり、まず中富町を人々が快適に住める町にしようということで、和紙産業振興の目標をさらに大きな視野に置いたのである。
快適に暮らし、幸せを感じられる町にするため、中富町では、町営バスや通学バス、救急車などを充実させ、バスはすべて一律料金にしている。これは、多数を占めるお年寄りたちのためでもある。また、生活に結びついた和紙作りを青少年に学んでもらおうと、「自然、味、技術」体験を3本の軸にした「なかとみ青少年自然の里」も設立した。もちろん、体験学習の指導者として、町民に活躍の場を与えるというねらいもある。
中富町の町作りを進めてすでに20年になる丸山優さんは、「活力あふれ、使命感に燃えた若い世代に希望を託しています」と、思いを込める。
こうやって、中富町の人々が絶えず和紙作りの構想を練り、教育への情熱を燃やすことで、次第に地元の子供たちも和紙の温かみを知るようになり、ひいては物を大切にするようになってきた。和紙の持つ温かさは、人の心の温かさをも引き出すと言えないだろうか。中富町の人々が、真摯な態度で和紙の持つ優しさに向かう時、その思いは紙を通して、まだ見ぬ人々の手元へと届けられるのかもしれない。
時代の変化に合わせ、西島和紙でデザイン性を重視した装飾品が作られている。可愛らしい和紙の人形も人気がある。
時代の変化に合わせ、西島和紙でデザイン性を重視した装飾品が作られている。可愛らしい和紙の人形も人気がある。
工芸品作りは中富町の人々の暮らしに浸透し、学校の講堂は町の女性たちの工芸教室になっている。写真は皆で竹や藁や松を使い、日本の正月に欠かせないおめでたい門松を作っているところだ。
時代の変化に合わせ、西島和紙でデザイン性を重視した装飾品が作られている。可愛らしい和紙の人形も人気がある。
平凡な山里で48の集落それぞれに特色を打ち出した山北町は、ふるさとづくりの優秀なモデルとなった。豊かな自然資源がここを有名な観光地にしたのである。