もう一つの台湾
中国史を学ぶためにイェール大学で中国語を学び始めた。教員の一人だった詩人の鄭愁予が「康豹」という中国語名をつけてくれた。
1980年代の当時、中国はまだ文化大革命から完全には回復していなかった。一方、台米関係は良好で、台湾の社会は相対的に自由だった。また、台湾は華語教育の教員や設備も整っており、外国人が中国語を学ぶには最適な選択だった。こうして1983年の夏、彼は台湾に中国語を学びにやってくる。当時の台湾で、コーラは1缶25元、台湾ビールは21元で、ミネラルウォーターはあまり売っていなかった。「台湾ビールの方が食が進みました」と彼は当時を思い出して笑う。
国際学舎に滞在していた彼の周囲は国語を話す環境で、当時の彼は台湾語の存在すら知らなかった。教材に出てくる台湾も、阿里山や日月潭などで、夏休みの短い研修では、台湾文化に触れる機会はなかったのである。
翌年、彼はプリンストン大学東アジア研究の博士課程に入り、再び中国語学習のために台湾に留学して台湾大学のスタンフォード‧センターに1年滞在した。台湾の友人ができ、万華や鹿港などの古跡に連れていってくれた。「ここで、台湾には台湾語を話す文化、王爺や媽祖を信仰する文化があることを初めて知りました」と言う。
同じ頃、彼はスタンフォード‧センターで彼の人生を変える師、デイビッド‧K‧ジョーダン教授と出会う。カリフォルニア大学サンディエゴ校の人類学者であるジョーダン教授は、西洋の人類学界における漢人文化研究の先駆けで、当時は台南の西港で民間信仰に関するフィールドワークを行なっていた。台湾語も流暢に話せるジョーダン教授は、カッツ氏を西港で3年に一度行なわれる瘟醮の儀式に連れて行った。「ここで私は初めて王船を燃やす儀式や、大勢の神憑りが法器を身体に打ち付ける様を目にし、衝撃を受けました」と言う。この経験から、中国史を研究する予定だった彼は、「焼王船」の歴史を博士論文のテーマに選んだのである。