写真ではなくイメージの構築
劉芸怡は廃墟の「表面」に立ち返り、まず廃墟の外観を撮影し、それからデジタルのポストプロダクションで「廃墟の姿を復元」していく。言い換えれば、劉芸怡の作品はそのものが持つ指標性(Indexicality)を有するだけでなく、「絵画的虚偽性」をも有するのである。ポストプロダクションにおけるコラージュ(デジタル・ペインティング)を通して現代の産物(自動車など)を消し去り、廃墟を己の心の中の原型へと復元していく。言い換えれば、その作品はカメラでとらえた「写真」ではなく、慎重に手を加えて純粋な感覚を再現した「イメージの構築」なのである。
この「イメージの構築」と、大きく引き伸ばして細部まできめ細かく表現する手法により、鑑賞者の視線は絶えず作品の上を移ろい、固定した一つの視点から作品全体をとらえることは困難である。こうした視線の移動自体が、観る者に「時間の流動性」を意識させることとなる。さらに「デジタル・コラージュ」を用いて建築物を再構築することにより、鑑賞者は空間の断裂と重なりを感じる。
デジタル・コラージュの手法で建築物の細部が明瞭に表現され、さらに「現実的には不可能な視角」(肉眼では視角は常に変化するため、写真を通さなければこのような機械的な視角は得られない)で見せるため、鑑賞者は「本物よりリアル」という感覚を覚え、そこに亡霊に似た何かを感じるのである。この亡霊のような感覚は、存在(実際の廃墟)と不在(写真の中の廃墟は劉芸怡が作り出したものであり、現実にはあり得ない視角でとらえられている)の間に存在する。
劉芸怡は、廃墟となった建築物のリアルな物質を撮影するだけでなく、人々の内面に存在する夢の中、そこに潜む目に見えない意識を再構築しているかのようでもある。これら唯物的なクラシカルな廃墟は、実は私たちの心の中の深層の構造を直撃し、それと同時に創造的に鑑賞者に自らの記憶やイメージ、アイデンティティを考えさせるのである。
『消失する都市,Weißenfels,ドイツ』(2013年)。他の無機質な作品と違い、この作品には緑と陽光があり、生気を感じさせる。
『消えた肖像,ベルリンⅠ,Ⅱ,Ⅲ,ドイツ』(2014年)。同じ一つの廃墟が光線の違いによって異なる痕跡を見せる。
『消えた肖像,ベルリンⅠ,Ⅱ,Ⅲ,ドイツ』(2014年)。同じ一つの廃墟が光線の違いによって異なる痕跡を見せる。
『消えた肖像,ベルリンⅠ,Ⅱ,Ⅲ,ドイツ』(2014年)。同じ一つの廃墟が光線の違いによって異なる痕跡を見せる。